小金井発!芸術文化を書くこと/伝えること講座

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第1回|武田徹「書くことは、生きること」①

2008年6月6日(金)第一回目の講座が行われました。今回の講座では「書くことを自分の中でどう位置づけるか」、「書くために情報をどのように調べるのか(インプットの仕方)」を中心に講師の武田徹先生からお話がありました。

講座1


 一つ目の「書くことを自分の中でどう位置づけるのか」ということについては、「書くことは生きること」だという武田先生の言葉に全て集約されているように思います。私たちは生きていく上でたくさんの情報をインプットしていく。つまり人間はたくさんの情報を保持している情報の束であり、その情報を外にアウトプットすることで、その人自身の一部を書き残していくことになる。この動作は社会において情報の通り道としての人間の役割を果たしていることを意味しています。つまり私たちが何かを書くためには書き残したいと思う情報を持っていることが必要なのです。この情報が多ければ多いほど私達は容易に書くことが出来ます。

 書くために必要な情報を持つためには情報を調べる行為が必要になります。そこで二つ目の「書くためにどのように情報を調べるのか」という話につながっていきます。先生は情報の調べ方として行なうのが簡単なことから調べるやり方を示されました。今回の講座ではネット検索、文献調査、非干渉型調査について、具体的な調べ方を教えていただきました。

 私達の生活の中で一番容易で身近な調べ方はインターネットから情報を引き出すことです。しかし、インターネットの世界にはたくさんの情報があります。目的のサイトにたどり着くため、ひとつひとつを探していてはきりがありません。そのためにyahooやgoogleといった検索を専門にしたサイトがあります。この検索サイトで効率的に情報を調べるためには、検索サイトのメリットとデメリットを知っておく必要があります。講座では検索サイトの発展の歴史から、それぞれのサイトの特徴が示されました。

講座1-2

次に文献調査では文献の効率的な見つけ方が示されました。普段、私達が文献を見つける時に主に書店や図書館を利用します。検索サイトと同様に書店や図書館にもそれぞれのメリットやデメリットがあります。特に日本では出版会社と書店の関係上、新刊文献は書店で容易に見つけることができますが、それ以外の文献を見つけたい時は図書館を利用するのが効率的です。
 最後に非干渉型調査についてですが、具体的な方法としては取材やアンケートの方法です。ごく些細な情報でもその蓄積によって大きな情報になることがあります。また日常の中にも情報はたくさんあります。私達が注意深く見たり聞いたりすることで題材は浮き上がってきます。事実自身の情報を読み解くことも必要です。

 今回は書くことの前の段階の情報を調べるということを中心に先生はお話を進められたのですが、情報の調べ方を効率的に整理して実行するだけど自分が調べることのできる情報がこんなにも違ってくるのかと思いました。これまであまり書くという行為の過程について意識して考えたことはありませんでしたが、自分がどのように書いているのかということについて考えてみようと思いました。

(藤原旅人)

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第2回|武田徹「書くことは、生きること」②

第2回の今日は、「取材の話」だ。芸術家はふつう、その表現を文字では表さない。だから、だれかが言葉を聞いて、それを文字にしなければならない。そう、だから今日はインタビューの技術と、それをどのように文章化するかがテーマとなる。
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【準備からインタビューまで】
 インタビューは、相手と時間を共有して話すことになる。その結果は「やってみないと分からない」。そこで話の勢いに流されないように、準備をしておく。でも、話しているうちに未知の領域に入ってしまって、あらかじめ用意したシナリオは裏切られてしまう。「そこに、インタビューを行う意味が生まれる」と武田講師は言う。それには、事前準備でそのインタビューの目的・目標を明確にしておく必要がある。
 目的・目標が決まったら、それにふさわしいインタビューイ(取材対象者)を選び出す。いろいろな方法があるけれど、だれかに紹介してもらうことがもっとも効果的だ。
 つぎには取材の交渉となる。世代が上なら手紙がいいと思うが、相手の対応をその場で把握できる「電話」が最良だ。取材に関する謝礼などの条件も伝え、だめでもあとで話を聞けるように工夫することも大切である。
 さて取材となったとき、余分なことを聞き過ぎると、まとまりがつかなくなる。そのために、質問票をつくっておく。取材者の常識だけれど、時間は厳守すること。録音も相手の了承を得て、しておいた方がいい。メモだけでは微妙なニュアンスを聞き逃すからだ。
 取材というものは「不自然な会話」であるが、それを感じさせないように相手を納得させることが必要で、主導権もしっかり押さえておく。ある女性記者は政治家への取材で政治音痴を演じ、「このまま返すと『ひどい記事』が出ることになるかも…」の一言で、相手が懸命に話さなければならない状況を引き出したなんていうこともあるそうだ。一般には、世間話から徐々に本筋に持っていくが、人によってはどんどん話が横にそれる場合もある。それを修正していくにも、やはり相手を納得させるだけの教養力があった方がいい。それと、取材では聞き忘れに注意したい。また終了したら、礼状だけはしっかり出しておいて、ゲラのチェックについては、柔軟に対応する。

—インタビュー実習—
課題:「死ぬかと思った経験」を2人の参加者が、スタッフ2人から聞く。
① 自らのアフリカでの体験を示し、バングラデシュのジェネストでの危険な体験を聞き出した。
② 「死ぬかと思った」ことなどないというインタビューイから、ねばって「一人きりで熱を出して動けなくなった心細さ」を聞き出した。
いずれのインタビュアーも多少慣れていたが、武田講師から、あらためて5W1Hの押さえの必要が指摘された。

—課題のテーマについて—
 武田講師が、参加者が提出したルポルタージュの課題の中から「未来派と音楽とのつながり」を探ろうというにテーマついて取り上げ、文献調査を主にするにしても、その時代に詳しい専門家にインタビューすることが望ましいと示唆した。
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【インタビュー観の変遷】
 作品化は、インタビューの文字化にほかならない。しかし、では文字化された作品はインタビューイの真の「言葉」を表しているのだろうか。インタビューで得られたものは、けっして自然科学的再現性にもとづくものではない。言葉自体が、インタビューの状況の中でつくられていているからだ。そのことをストレートに認めたのが「対話主義的構築主義」で、反実在論といえる。
 桜井厚さんが分析したように、語られた言葉にはパーソナル・ストーリー(個人的な語り)、モデル・ストーリー(共同体の建前)、ドミナント・ストーリー(社会的通念)が層をなしていて、他者の言葉が混在していること、また、何人かの会話では、会話の暗黙の順番を無視する人によって会話の内容が変化させられることがある。このような状況を避けるために、単にメモによる取材ではなく、録音による取材が必要になる。会話がとぎれたり、変化したときにはモデル・ストーリーやドミナント・ストーリーを聞かされたり、インタビュアーが何らかの圧力を与えている可能性があるからだ。そのような「聞く・話す」という関係の中で構築されてしまった部分を録音チェックしながら、いかに除いて作品化するかが、インタビューの課題でもある。

(土井利彦)

第3回|武田徹「書くことは、生きること」③

第3回:書いてみよう〜事実的文章の書き方〜

 これまでの「調べてみよう」「聞いてみよう」の2講座をふまえ、今回はいよいよラストステップ。「書いてみよう」というのがテーマである。
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 文章にはさまざまなスタイルのものがあるが、まず「この講座では芸術(文学)的な文章は相手にしません」という前置きがあった。個性的な文章は教えることができないから、というのがその理由だ。文芸書には、ときに読点(、)や改行が全くない文章がみられるが、あれは有名な作家(社会的ポジションのある人)が書いているから、まかりとおるのである。
 では「文学的な文章」の対としての「事実的な文章」は、どのようにすれば書くことができるのか。武田先生はそのテキストとして、本多勝一の『日本語の作文技術』が参考になるという。本多勝一は、自ら複数の生年月日を口にしたり、人前に出るときは必ずサングラスとカツラを着けるなど、ちょっと変わった人として知られる。ジャーナリストの場合、自分の顔が売れていいことなんて何もないというのが「変装」の理由だが、これは事実的な文章を生みだすときの入り口として参考になるエピソードであろう。

●修飾語の位置とテンの打ち方

 そんな本多勝一氏のエピソードのあと、『日本語の作文技術』に基づいて事実的な文章の書き方を教えてもらった。
 1つは文章の中で、「修飾する側とされる側」の関係をはっきりさせるということである。ポイントは、修飾する語とされる語の関係が入り組まないようにすること、順番が逆になったり離れすぎないようにすることだ。また、1つの語に複数の修飾語がかかる場合、「長い修飾語は前に、短い修飾語は後ろに」という法則に従うと、誤読の可能性が低くなるという。次に、テン(読点)の打ち方である。いうまでもなく、テンは誤読を防ぐために打つもので、修飾語順のルールを守れない場合、また守りたくない場合に用いる。「テンには思想が込められている」という人もいるそうだが、確かにテンの打ち方ひとつで文章の雰囲気や格調が変わってくる。他にも、文章を立体的にするカギカッコの使い方などを教わった。

●伝聞ルポルタージュの限界

 後半は沢木耕太郎の作品を題材に、「ルポルタージュ」という表現手法についていろいろと考えさせられた。ルポルタージュは表現の自由を貫けるジャンルで、読者に最後まで読んでもらえるかどうかが評価基準となる。表現方法は何でもありだが、「読み手」にきちんと受け止められることが大事で、読み終わったあともう一度読みたくなってもらえれば最高だ。それには、よいテーマを選ぶこと、読者を上手にいざなう書き出しの一文を選ぶことなどが必要になってくる。
 沢木耕太郎は、ルポルタージュの「表現の自由」を最大限に追究したライターとして知られる。1978年の『テロルの決算』は社会党の浅沼委員長を刺殺した少年・山口二矢の話であるが、これにはアメリカで生まれたジャーナリズムの改革運動である「ニュージャーナリズム」の手法が用いられている。この作品では、小説のように出来事があたかも目の前で繰り広げられているように描かれているが、少年は獄中で亡くなったため、沢木自身は少年には取材できなかったという。周辺の複数の人たちに丹念に取材し、それらを重ね合わせることでその時に何が起こっていたかを再現したものである。この作品では文章の中に筆者は登場しない。主人公の少年を三人称にして、取材によって明らかになった出来事を連ねていく。
 しかし、この手法の限界は「伝聞である」ということだ。取材を通じて得た情報を論理的に組み立てて推定しているにすぎない。たとえそれが事実であったとしても、筆者には自分が直接本人から聞いていないという、もやもやとした部分をぬぐうことはできない。嘘でないと信じる素材で必至に作りあげたとしても、結局は一編の嘘でしかありえない。嘘を書くために嘘を書かぬ、という奇妙な努力を続けていることになると、沢木はある文章の中で書いている。

●ルポルタージュの裏側としての小説?

 そんな沢木が次にめざしたのは、自分が見たこと、聞いたことしか書かない「私ノンフィクション」という手法である。『深夜特急』は沢木自らがユーラシア大陸をバスで横断する1年間の旅をまとめたものだが、ここでは筆者が一人称で登場し、いきいきと行動する(自身のことを書くわけだから当然だ)。この作品は当時の若者たちに「永遠の若者・沢木耕太郎」のイメージを決定づけた。
 次に挑んだのは「彼か彼女のノンフィクション」である。第三者が見たことや聞いたことを、第三者を一人称にして描くもので、作品としては壇一雄の未亡人・ヨソ子を主人公にした『壇』がある。このなかには筆者の沢木が「飽きずに話を聞きにきてくださった方」として登場し、ヨソ子の心の内を聞き出した現場が再現されている。
 最後に沢木が試みたのが「小説」という表現手法である。たとえば『血の味』という作品は、沢木が『テロルの決算』で一度描いた少年を「私」という一人称にして、小説にしたものである。小説ならあらゆる世界のことが描ける。武田先生は「いわば、ルポルタージュの裏側としての小説」という表現をされた。より事実らしく書くために、ありえる世界を書くために、事実としてあった世界へのこだわりを捨てるというのが小説のひとつの存在理由なのであろう。「挑戦の幅はこんなにも広い」。これが武田先生の「書くこと講座」の締めの一言だった。
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 この3回の講座を通して、言葉(文字)のもつ力や意味を教わった気がする。日常生活のなかにも、書く・伝えるという作業は氾濫している。もっと言葉に敏感になりたい、言葉を大切にしたい。これが感想です。武田先生、どうもありがとうございました。

(宮本幹江)

第4回|津田広志「<言葉にできない感動>って何?」

講座の目的
1 市民が中心になり、能動的に芸術鑑賞をする方法とは?
 以前は芸術について論評したり解説したりするのは、専らその分野の専門家であり、一般市民はこれを、そのまま、ありがたく聞くということであった。しかし、最近では専門家に限らず、市民の目線で芸術を見るような広がりを見せている。
 これは芸術の分野に限らず、政治に関しても市民が中心となって能動的に、市民レベルで政治を受け止め、考え、メッセージを伝えるようになってきている。従来、法律の専門家である裁判官のみに任されていた裁判も、市民が主体的に参画するように改革されつつある。これなども「市民レベルの広がり」と見做すことが出来よう。
 それでは、どうしたら芸術を鑑賞することが出来るか。「自分の心の中の声に耳を傾ける」これで充分である。豊かな経験や深い知識が芸術を読み取る耳を養うことは云うまでもない。

2 アートは潤いのためにあるのか、生きるためにあるのか?
 例を挙げると、東山魁夷の展覧会場には毎回多くの人が来る。【白馬の森】を観て、「不思議と気持ちが落ち着く」、「すがすがしい、この気分がたまらない」「簡単に言えば、癒される」と感想を持つ。確かに芸術は人生に潤いを与えるのである。
 一方、ユダヤ人強制収容所・テレジアに残されている子供たちの絵はどうであろうか?
 これらの絵は人に見せるために描かれたものではない。死が迫る気配を敏感に感じ、切羽詰った限界状態で描かれたものであって、絵は、そして絵を描くことは子供たちとって、生きるために必要なものであったに違いない。  

3 アートリテラシー(アートの読み書き能力)を身につける
 literacyとは、「読み書きする能力」の意味であるが、その対象をアートとしてみると、即ち、「アートを読み書きする能力」となる。一枚の絵画も前にして、その絵画が発する様々な「目に見えない何か」を主体的に受け止め、読み解いていく能力のことである。

言葉にできない感動とは?
 講座では受講者の数人が「言葉にできない感動」の経験などを語った。その内の一人は「私はライブで演奏しているときに、ふっとなんとも不思議な一瞬を経験したことがある。他の演奏者との間で交わす音のやり取りの一瞬に、日頃の練習では経験したことのない恍惚感か光悦感か。これこそ、言葉に表せない感動」と自らの体験を語った。

1 読むことは作ること
2 微妙な変化に注目する
3 作家はどのように世界を感じ描いているのか


「私の作品を読むことは、作ることと同じだ」マルセル・プルースト
 見る人は作る人であり、見ることは作ること、と考えられる。
「真の美は、不完全を心の中で完全なものにする人だけが発見することができる」岡倉天心

 一枚の絵画に接するとき人は、様々な角度から、時には自分の立脚している位置を変え、その絵の細部にまで注目し、自らの知識と体験と想像力を駆使して、作家の描く世界を読み解こうと試みる。
 書によって自らを表現している受講生の一人に、「道」の文字を書いてもらう。彼女は暫く間を置いてから、二つの異なったイメージで「道」の文字を、ホワイトボードに書き上げた。

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【津田先生のコメント】
 もし、私がこのように突然「道」を自分のイメージで自由に書いてください、と言われても、このような表現は到底できない。作ると言うこと(今は書を描くということ)は、自由にとき離れた心で、勇気を持って、未知の世界に飛び込むことなのです。
 しかし、彼女にとっても、ここに描かれた書の全てを自分がコントロールしたものではないかもしれない。ある意味それは作り手にとっても、予想不可能な小宇宙かもしれません。

着想の海=まなざし
 ともに考えながら、複数のまなざしを作っていきましょう。
 津田先生はスクリーンに一枚の絵画を大きく映し出し、「この絵をよく見て、何処に気持ちが引かれ、注目したか? どんな印象を持ったか? 一人ずつ述べてください」と。(この絵画はレオナルド・ダヴィンチの「白いテンを抱く貴婦人」であったが、先生はそのことには触れなかった。)
 出席受講者のほぼ全員が発言したが、その中から、いくつかを紹介することにする。
 A:「私は、抱いている動物に目が行きました。愛玩としては爪も目つきも鋭いし、そこから不気味と言うか、異様な雰囲気を感じました。」
 B:「私は、この女性にしては手が異常に大きいと見えました。力が入っているようだし、この動物を支配している圧力を感じました」
 C:「気になるのは目線です。画面の外に目をやっています。そちらでは賑やかなパーティーをやっていて、彼女はそこからそっと抜け出して、この動物を盗んで逃げるところではないか」
 D:「私は、今は元気がないので、暗い印象を持つが、元気な時だったら違う印象を持つかもしれない」「人の発言を聞いているうちに、そうとも思える・・・そんな気になってきた」
 E:「黒一色の背景に何かあるように思えてならない」

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【津田先生のコメント】
 このように、人によって着目する点も惹かれるところも様々で、受ける印象も、引き出される想も異なってきます。鑑賞には正解はないのです。自由な心で様々な角度から見、幻想の世界に自らを放つことです。

「幻想のなかにあるすばらしいところ、それは幻想がなく、現実しかないということだ」
アンドレ・ブルトン 詩人


最後に全員に宿題
「レオナルド・ダヴィンチの「モナリザ」を自分の裸眼で見て、800字以内にまとめること」

感想
 今回は津田先生の初めての講座であったので、私は先生の話の展開や語法が掴めず戸惑った。この戸惑いは、テーマが芸術作品の鑑賞に関することであったから、レジメに沿って箇条書き的に話を進められないことも一因していることだろう。今後、2回、3回と回を重ねることによって、これらは、解決されるに違いない。
 この紙面は自分の意見を述べるところではないので、手短に済ませるが、鑑賞する態度には大きく二通りあると思う。一つは、感じたままに自分の世界を広げていく。もう一つは、作者の意図を汲み取ることに専念する。実際はこの二つが互いに絡み合いながら、先になり、後になりしながら、作品に迫っていくのであろうが、今後の講座の中でこの二つがどのように扱われるのか、大いに興味のあるところである。

(鈴木嘉輝)

第5回|津田広志「<言葉にできない感動>って何?②

「感動は、『好き』『嫌い』『美しい』『醜い』といった普段使っている言葉だけでは捉えられない、言葉を超える異次元の世界にあるもの」(津田先生)。ではどうすれば言葉で表現できるのか。それを学ぶ今回の講座では、まず前回に引き続き、受講生数人に「言葉にできない感動」の体験談を語ってもらった。

「末期ガンを患った母が、毎年植えていたカサブランカの球根を植え、それから2ヵ月後に息を引き取った。すると、なんとその翌日に花が咲いた。それを見た時、自分の中でなんともいえない感情が沸き上がった」

「初めてプロレスを見に行った際、負けている方が殴られ痛めつけられても何度も立ち向かっていくのを見て、なんでそこまでできるんだろうと、勝っている方ではなく負けている方に感動した」

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これらの発言を受け津田先生は「そのような感情は普通の言葉では表現できないけれど、普通とは違う言葉でなら表現できるはず」と語り、その方法として以下の3つの項目を挙げた。

比喩 ~コメディアンのように他の何かに例えることで、本質をぐさりと突く。
例:吉田秀和(音楽評論家)「3月のシュトラウス」より「総じて、強音は柔軟な強さとでもいうか、和牛の上質の肉みたいなコクのある味わいで金属的な臭みがまったくない」

音楽の言葉にできない有機的な味わいを、ユーモアを交えてずばりと表現している。

逆説 ~逆説を使うことで一挙に表現の世界が広がる。
例:土方巽(舞踏家)「舞踏とは、命がけで立っている死体である」

死体は命が無いのに敢えて「命」という言葉を使う。単純に生と死が分断されているわけではない、広い世界を表現している。

否定形 ~常識を一旦否定してみることで可能性が広がる。
例:ロラン・バルト(思想家)「単一な写真は叫ぶことはできても、傷を負わすことは出来ない・・・」

否定形を使うことによって対象の大きさを表現している。

「これらの方法は、テクニックとして使うと鼻持ちならない文章になってしまう。特に比喩は、純粋に心から生まれてくるもので書くほうがいい。そのためにどうセンスを作り出すかが大切です」(津田先生)
 
また、前回触れた「見ることは作ること」という言葉について、津田先生は改めて次のように説明した。「芸術作品は、作家と鑑賞者によって2回作られている。この『作家が作ること』と『鑑賞者が作ること』が両輪になって併走し始めると、鑑賞者の主観的感情が抜けて客観性が生まれる。その感情の果てまで突き詰めていくことが重要です」

後半では、現代の作品である2種類の写真を取り上げ、受講生にそれぞれの感想を述べてもらった。1枚目は梅佳代の作品である、子供が草の上に寝そべり何かを見ているような写真。これについては

「試し撮りみたい。なんでこんな写真を撮ったのかわからない」
「大好きなお菓子をこぼしても気づかないほど、夢中になって何をみているのかな」
「自意識から離れた放心状態のようにも見える」
「子供の占める面積が全体の4分の1で、残りは草や土だから、本当に伝えたいのは自然のほうなのかもしれない」

など、多様な感想があった。

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一方、2枚目の赤ちゃんにキスする母親の顔と赤ちゃんの足の写真については、ほとんどの受講生の感想が「この赤ちゃんかわいいでしょうと訴えているような、意図がはっきりした写真」という意見に集約された。

これを受け、津田先生は「同じ子供を撮った写真でも表現はかなり違う。2枚目は、親と子の絆を表したような意見がはっきりしていてメッセージ性が強い。ただ、その分ゾーンが狭いと感じる人もいるかもしれない。一方、1は主観的な感情がぽんと出てくる作品で、意見が分かれた。このように、作品を見る時は似たような作品と比較すると、見方がより深まります」と説明した。

作品と向き合った時、鑑賞者に最初に湧き上がる主観的感情は、「好き」「嫌い」「どうでもいい」のいずれか。その感情を深く掘り下げることの必要性を、津田先生は以下のようなユニークな方法で解説した。

「たとえばコンテンポラリーダンスで、演出家が『悲しい』を表現しろと指示したとします」。

ここで津田先生は、俯いて胸を抱えるようなポーズ。「恐らく多くの人がこうするでしょう。『悲しい』を表現するのにいきなり胸を反らす人はいないはず。しかし演出家に『そこで止まらずもっと動け』と言われたらどうするか。私ならこうです」。その場でゆっくり回って、仰向けに寝そべり、天井を見上げる。「後半の動きは人それぞれ違うはずです」。

つまり、最初みな似たような単純な感情を抱くもの。しかしそれを超えると、各々違うものが生まれる。だから感情を止めてはいけない。「どうでもいい」と感じたなら、なぜどうでもいいのかを突き詰めて考えてみる必要がある。

また、感情を表に出すにあたって、人には2つの傾向がある。感情が出すぎて収集がつかなくなる「感情過多型」と、 感情が出なくて言葉が出ず、文章が細切れになる「感情フリーズ型」だ。まずは自分がどちらなのか考えてみよう。そしてもし1なら、一度感情を全部出し切ってから、もう一度自分の文章を読み返し、不要なところを削っていくといい。2なら、自分の子供の感覚を押し殺している人が多いので、子供の部分、やんちゃなところを探って欲しい。そのように感情をうまく受けることによって、自分の独特の文章が出てくるという。

「アートリテラシーの方法は、まず自分の傾向を知り、自分の立ち居地を確認。その上で比較、類似を入れ、最後に知識を加える。これを比喩、逆説、否定形を入れながら行うことです」(津田先生)

<次回までの課題>

今回の講座で学んだことを踏まえ、題材とする作品を自由に選んで800字で文章を書く。

前回の講座を欠席した私にとって、津田先生のお話を伺うのは今回が初めてでした。先生独特の浮遊感のあるトークは惹き込まれるものがありましたが、馴れてないために先生がおっしゃったことの本来の意味を掴みきれなかった部分があるかもしれません。

講座の本筋とは少し離れていたのでレポートには入れませんでしたが、受講生の方々の「言葉にできない感動」の経験談を受け、津田先生が「感動には世代的な違いがある」と指摘、「年配の人は死にまつわること。若い人はエンターテイメントなど、生きるエネルギーのようなものに感動する。こうした世代間の格差は今の日本の大きな問題です」とおっしゃったことが心に残りました。

(数野千佳)

第6回|津田広志「<言葉にできない感動>って何?」③

1.前回のおさらい 〈書き方〉に利用したい手法について補足を含めて説明
① 読み手側は作品の批評に比喩、逆説、否定形を使って、その作品を、平坦でなく、深い世界から表現することができる。読み手が自分の表現を深めることで、作品や作家のより深い部分を露にすることができる。

② 読み手の感情の受け入れが固有の文体を生む―読み手が自分の感覚を大切にし、感情により深く入り込んで文章を心がければ固有の文体が生まれる。例として、前々回の課題「モナリザを観賞する」から受講者の文章を引用した。
 「モナリザは異臭を放っている」「モナリザの背景を黒く塗ってみる」…独特のセンスがある。この一文だけでひきつけられる。
 「不自然さゆえに、その不自然さが謎となり、何世紀にもわたって、モナリザを名画といわせた」…不自然という単語を使い、逆説でモナリザの名画たる所以を説明している。
 「なめらかな肌とかすかな微笑みと皮肉っぽい眼差しをした若い女性であるのに、老成したような落ち着きをたたえたアンバランス。おそらく、この不安定さが名画の秘密、ともいえないだろうか」…モナリザの眼差しを特有の見方で捉え、さらに官能的な文体をものにしている。
 「モナリザの左半分は、もしかして男性? 画家はなぜ女なるものと男なるものを描いたのでしょうか」…読み手のジェンダーに敏感な感性が感じられる。
 個性は個性的になるのではなくすでに持っているものを発見すること。固有の文体は作るものではなく、すでに自分の内面に眠っている感性を表に出し発見する作業。自分が書いたものを読み返して一番強く感じるフレーズをタイトルにすると良い。

③ メディアに対して、常に取り込まれない批判精神を持ちつづけること。メディアに翻弄されることが当たり前になりがちな現代世界において、実はメディアの人間もまた過度の情報に翻弄される存在でもあることを認識する。出版物やTV、美術館等の広報やネットなどあらゆる場所に情報が溢れている時代だからこそ、個人が作品の〈質〉に対して固有の価値観を正々堂々と主張することが必要になる。

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2.マチスの絵2枚と奈良県のシンボルマーク2種について 
 まず、ダンスをする女性たちの絵について、次にシンボリックなマチスの女性の絵について、それから奈良県のシンボルマーク「せんとくん」「まんとくん」について受講者が意見を述べた。
 マチスの絵には、好感を持つ、持たないという意見が発展して様々な見方が述べられた。強さ、喜び、美しさ、セックスアピール、など抽象的な概念から「足元のみどりにひかれる」「陰毛も乳首もないのが不自然」など具体的なもの、また「輪廻を感じる」などの物語を感じた意見まであった。津田先生は、きれいに作られた絵よりも、不安定なマイナスの部分を持つものこそが人をひきつける魅力を持つことに言及した。
 一方で「せんとくん」「まんとくん」に対しては、「興味がわかない」という無関心な意見が多かった。
 「マチスを見た後で見ても感想が出しづらいですね」と津田先生の苦笑が…。

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3.〈書き方〉について 実践的な手法についての説明。
① 誰に向けて書くか 
文章を書く時に必須の条件付けとして、a)話し言葉と書き言葉の違い、b)他者(赤の他人)に向ける、c)他者の年齢、知識や発表媒体の特徴を知ることの3つをあげた。他者に書くときは他者を意識する距離感が必要である。

② スタイル 
情報としての短評ならワンポイント切れる文章を入れるとよい。エッセイは固有の文体で書くとよい。自分自身で認めがたいところによさがあることもあるので自分を見つめ直してみること。

③ 文章の建築 起承転結のこと
 書き出しがおもしろくないと他人はひきつけられない。小さな爆弾を投げるよう。
 話題の客観性…一人よがりにならず、普遍性のあるテーマをここで見つける。たくさんの人がテーブルにつけるように。
 発見や価値逆転があるか…文章の大黒柱になる部分。文章の読み手に新しい価値を発見させること。これがないと事実の羅列に終わってしまう。
 日常におりてきているか…『転』で既成の概念をくつがえした後のフォローには闇を光に転換させる結びを。

④ どこに気をつけるか 
・文章のリズムを作るには、意識して文の長短を配置するとよい。
・接続詞の「が」を安易に使わない。特に順接に使わないよう心がける。
・形容詞を二つ以上続けるときは、重要な形容詞ほど名詞に近づける。
・ひらがなの多い文章は子どもっぽく、漢字はインパクトが強いので多用すると文章を重くする。意識して自分の感覚でひらがな、漢字の使い分けをする。特に、カタカナは効果的なところに意識して使う。

4.最後に 
・人に好かれる要素として「きれい」「うまい」「やさしい」があるが、優れた作品には逆説的な「+α」がある。マチスの絵で言えば、不恰好だからきれい、ぎこちないからうまい、抑圧されているからやさしいなど。作家の闇が読み手の感動になる。
・例えばアウトサイダーアート(精神に障害をおった人の絵)は、テクニックはなくても見る者に訴えかける力はプロよりも強いことがある。しかし、脚光を浴びた結果、万人させるため毒を抜いてしまおうとする。例えば、パブリックアートは公共の場を作品にする。
・津田先生の経験により感じた書き手の資質
 ① 話していて常に「光」を発する人。そういう人の文章は素晴らしい。
 ② 「光」に見えるが内面の「闇」から目を背けているだけの人。人をひきつける文章は書けない。
 ③ 「闇」を抱えていて、「闇」を「光」に変えようとする人。物書きになれる人。
 ④ ただ「闇」だけの人。書き手に向いていない。
・例えばマチス。マチスは苦悩していたが、苦悩を喜びに変えられる人だった。
・最後に、リラックスについて。リラックスとは休息しながら集中している状態をさす。絵を見るときも、文章を書くときも、リラックスの状態でするとよい。

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課題 「私が体験した言葉にできない感動」を800字以内にまとめる 期限2週間
   条件:3回の講座で学んだ書き方を取り入れること。『転』を重視して。

感想
 おそらくレポートがそのまま感想なのだと思います。理解しきれなかった部分、曲解してしまった部分を含めて。
 受講後の懇親会でも作家の「光」と「闇」の関係に受講者の関心が集中しました。「闇」の中にいて「光」を捜し求めるのが人間の本能で、本能を客観的に見つめ、作品を使ってそれを他人に説明できる人が求められているように思いました。

(斎藤美菜子)

第7回|若林朋子「想いを伝える申請書づくり」

第7回目の講座は「想いを伝える申請書づくり」。
講師は、社団法人企業メセナ協議会の若林朋子さんです。

まず、配布された資料の説明と、前半・後半にわかれた講座内容の説明がされました。
「これからどんな事を学ぶのか?」が最初に明確になった上で、講座の始まりです。

「メセナ」とは?

「‘メセナ’という言葉を知っている方は?」という若林さんの質問に、約半数の人の手が上がりました。メセナについて話す場では、よくこの質問を最初にするそうです。「今日はさすが(知っている人が)いつもより多いですね」という若林さんの言葉に、自分がほめられたようで得意な気持ちになりました。実は、私はメセナという言葉を知らない側の1人だったのですが…。

さて、「メセナ」の定義は「企業市民の自覚にもとづき、直接的・即効的な販売促進・広告宣伝効果を求めるのではなく、長期的視野で、社会貢献の一環として行う芸術文化支援」ということでした。…漢字が多いです。すこし堅い印象です。ほぐしていきましょう。

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元々は、芸術文化への支援を意味するフランス語の単語から来ているそうです。でも、なぜこの言葉が選ばれたのでしょう?私は、芸術といえばおフランス、というイメージで選ばれたのかな、と安易に思ったのですが…。

日本にメセナが紹介されたのは、1988年に「文化と企業」というテーマで日仏文化サミットが行われたのがきっかけでした。それに応えるかたちで2年後に協議会が発足した際に、名称に採用されたのが「メセナ」です。TV番組の協賛企業の意味で既にに広く使われていた「スポンサー」は、手垢のついた言葉として避けられました。

新しい考えを紹介し、その活動を広げるためには、すでにイメージの固定している言葉ではなく新しい言葉がふさわしい、と考えられたようです。

では、「メセナ」はまったく新しい考え、輸入されたアイデアだったのでしょうか。

メセナという言葉がやって来る以前より、日本には民(個人実業家)による芸術擁護の実績がありました。海外の関係者によると「日本はメセナ大国」。質・量ともにトップレベル、とは驚きです。若林さんはたくさんの具体名を挙げて、日本でのメセナ(メセナと名付けられる以前のメセナ)の歴史を説明して下さいました。

メセナは決して、外国からの借り物のアイデアという訳ではなさそうです。むしろ、日本においては古くて新しい活動と言えるのかもしれません。

現代の企業メセナ運動は、どんな点で新しいのでしょうか?

メセナが紹介された当初は、見返りを求めない文化支援であるべき、と考えられていました。しかし、まったく見返りを求めないストイックな善行を続けるのは大変でしょう。その結果メセナが根づかないというのも困ります。

現在では、企業がメリットを期待するのは自然なこと、と考え方が変わってきました。そのメリットとは、広告効果による売上増のように直接的なものではなく、ブランドイメージの向上、企業文化育成、お客さんとのコミュニケーションづくり、といった間接的・非物質的な効果を意味するようです。

物質的なものだけに限定しないで「見返り」の意味を広く捉えること。メセナは企業の側にとってもメリットがあるのだ、メリットを求めていいのだ、という考え方。これらが現代の企業メセナの新しさのひとつと言っていいのかもしれません。

同じように見返りを求めた、80年代の「冠協賛イベント」と今日的メセナの違いについても話がありました。「芸術を消費する」冠協賛に対して「芸術を育成する」メセナ、という点が大きく違うようです。「(冠イベントのように)代理店に丸投げすると企業には何も残らない」という若林さんの言葉もとても印象的でした。すでに完成形の芸術をよそから持って来て紹介する(消費)だけでなく、現在進行形の芸術の創造を支援する(育成)ことで得られるもの、そして企業が自らメセナにたずさわることでこそ残るものとは、一体どんなものなのでしょう。

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次に若林さんから「皆さんが考えるメセナにはどういったものがありますか?」と質問がされました。受講生からは、具体的な芸術イベントの名前、文化施設の名前、地域行事への後援…などが挙がりましたが、メセナの形態は私たちが考えるよりも幅広いのでした。

資金でも物資でもない、人やノウハウの提供という方法で、その企業ならではの持ち味、専門分野を生かしたメセナが行われているそうです。また最近のメセナの傾向として、地域社会の重視、参加型のイベント、「環境+アート」のように異なる分野をつなぐ活動などが多く見られるとのこと。

メセナについて無知だった私も「なんだか面白そう!」と思えたところで、前半が終りました。

企画書づくりのポイントとは?

後半は、メセナに応募するための企画書づくりのポイントです。

企画書は、相手に働きかける役割を持った文章だという点がまず強調されました。自分だけにわかる言葉づかいではなく、他者に伝わる言葉、社会と関わることのできる言葉が求められるのが企画書です。仕事上、企画書を書き、また読む立場にある若林さんの言葉には説得力があります。

「基本的なことですが…」と前置きをした上で、平易で簡潔な言い回し、‘5W1H’の必要性や表記の統一など、読みやすい文章を書くために守るべきルールを教えて下さいました。

文章の内容そのものだけでなく、見た目を整えることも大切だそうです。読み手の目がスムーズに文字を追えるよう、ちょうどいい行間の幅を見つける。強調したい箇所では目が立ち止まってくれるよう、フォントに変化をつける。…なんだか、秘密の裏技を伝授されたようで、得した気分です。

更に、心に残る企画書を作るために、相手(企業)について情報を集め、企画書をカスタマイズして「あなただけ感」を持たせることや、読み手の目に留まるようなキャッチコピーを使うこと等、実践的なアドバイスにあふれた講義でした。

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質問

最後に、受講者からたくさんの質問が出ました。
質問者の立場や興味により、質問の内容もそれぞれに異なりました。

-パトロンとメセナの違いは?

-芸術というのは毒を含むもの。企業がそれをサポートするのに限界はないのか?

-実際に個人でパフォーマンス活動をしており、反体制的なものも含んでいます。支援して下さる企業の見つけ方は?

-校正の本は市販されていますか?

これらの質問にひとつひとつ丁寧に具体的に答え、質問者に必要な情報を与えようとしていた若林さん自身が、「メセナはパートナーシップ」という言葉そのものを体現しているように私には思えました。

感想

文章を書くことについての講座のレポートが、こんなに読みづらいひとりよがりの文章で申し訳ありません。「~だ/~である」調の客観的な文章がどうもうまく書けず、無理に書こうとすると当日頂いた資料の丸写しになる始末。どういう形式/立場/時制で書いたらいいのか、迷いに迷いながらの執筆作業でした!開き直って、文中に個人的な感想を盛り込んだり、自分が面白く感じたポイントを勝手に強調したので、レポートというより感想文のようになってしまいました。

(楊林智子)

第8回|大久保広晴「チープだけどリッチな効果のチラシづくり」

 2008年10月3日(金)に、第8回目の講座が行われた。今回は武蔵野文化事業団の大久保広晴さんを講師にお迎えした。テーマは「チープだけどリッチな効果のチラシづくり」。同事業団の事業の成功事例とチラシ戦略について具体的にお話いただいた。

 まず、一般的なクラシックの公演のものと同事業団主催公演のものとで、チラシの比較をおこなった。前者では、つややかな用紙にカラー印刷をしていることが多い。オペラなどでは金色を用いた豪華絢爛なものもある。しかし、後者では白紙にモノクロ、しかも文章を中心としたシンプルなチラシである。なぜこのようにしたのであろうか。 
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 同事業団が武蔵野市文化会館などで主催する事業は、年間約120本だそうである。この回数は、一般的な市民ホールの5~6倍といえる。また、公演チケットは9年連続で完売を続けているそうだ。まさしく、驚異的な実績といってよい。
 しかしながら、同事業団の規模や予算は他市と比較しても多い方ではない。事業所職員数はたったの6名である。ただ、彼らの専門性は総じて高いそうだ。職員は普段から各種催事を鑑賞し、多くのジャンルに詳しくなる努力をたのしみながら続けているのである。
 それに加えて、最小予算で最大効果を上げ続けていくためには、やはり秘策があるそうだ。それは、企画の立ち上げから出演者交渉、出演者のための交通機関や宿泊施設の手配、そしてチラシ制作などの広報、チケット販売、さらには当日の興行運営までを自ら行うことだ。イベント企画会社による出来合いの公演プランを用いた方が仕事量としては少ないのであろうが、面白みに欠けてコストもかかってしまうだろう。安上がりに武蔵野色を出すために、たとえば本邦初演の公演者を増やす努力は欠かせない。海外の情報も参照して日本では知られていない演奏家を常にチェックしている。また、他の地域でも公演をおこなうツアー的な公演者の場合、武蔵野だけはオリジナルプログラムを1曲でも入れてもらうといった具合だ。さらに、公演者のツアーそのものを同事業団が主催する場合もある。武蔵野市以外での公演をも主催すれば、もっと収益を上げることが出来るのだ。このように企画を自ら立案することで、中間マージンが発生しない低コストと、強い独自性を実現しているのである。
 こうしたさまざまな工夫の結果、地元客のみならず他府県のリピーターも生んでいるようだ。また、同事業団後援会「アルテ友の会」会員数は現在約8500名で、単純に人口比率で考えると市民の約0.6%に相当する。
 つまり、低価格で鑑賞でき、かつオリジナリティの高い公演を、3~4日に1度は開催し、完売しつづけているということになる。その結果、主婦が買い物帰りにクラシックを聴くなど、芸術が市民生活に密着した生活スタイルを作り出すことに成功した。

 さて、同事業団主催企画のチラシは、宣伝活動の中心となるものだ。先ほども述べたように、白紙に黒文字の簡単体裁を中心とし、あえて画像は入れないことも多い。このように徹底してシンプルにすることで、ひとつの公演でもチケットの売れ行きや配布ターゲット層に合わせて多種多様なチラシを制作し、印刷も自前でおこなって弾力的に配布できる。このシンプルながら特徴的な体裁は、今ではすっかり業界人や芸術ファンにも定着している。白紙に黒文字といえば武蔵野のチラシとまでいわれているようだ。
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 イベントチラシ制作では、イベント内容からターゲット客層、狙う宣伝効果など、そのチラシの目的にあわせてポイントを絞って制作するとよい。できれば、催事企画時から広報担当者も参加し、広報と企画が良く話し合い、同じ方向を向いて作るとよい。なお、同事業団の場合は一人の職員が企画立案も広報も兼任するため、少人数でもポイントを絞ったチラシを制作することができるのである。チラシの内容は、その使途に応じてさまざまな表現方法が考えられる。同事業団の場合は基本的にはシンプルに作るが、事後資料としても活用できるような詳細で画像が多いものもあるのだ。また、バレエ公演などの場合は、多少分かりにくくてもアーティスト独自の世界観を伝える芸術性の高いものもある。それに、たった1種のチラシにこだわる必要はない。思ったように集客できていない場合は、新しい切り口で表現したチラシを配布するなどの対策が必要であろう。

 以上のお話をいただいた後で、受講生が持ち寄ったさまざまなチラシを紹介しあい、意見交換をおこなった。芸術関係のみならず、商店などのチラシも紹介され、有意義な鑑賞会となった。
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 良いチラシは、一般市民をお客様に変える魔法の手紙なのだろう。そして、その魔法は計算されたタネが仕掛けてあるものなのだ。このシンプルで豊かな智恵を、私自身が関係するイベントでも是非活用したいと、強く思った次第である。

(中山由希子)

第9回!大橋一範「あなたに伝わる!まちコミづくり」

はじめに

 『週刊きちじょうじ』は、吉祥寺情報センターが発行するタウン誌である。1975年以来、33年間、毎週欠かさず刊行されて来た。1990年には、第6回NTT全国タウン誌賞を受賞している。
 大橋さんは、冒頭、この『週刊きちじょうじ』をインデックス・メディアという言葉で紹介された。「番組表のようなもの」という意味である。確かに、デパート、劇場、映画館、ギャラリー、ジャズライブ、リサイタル、フリーマーケット、大学の講座、行政イベントなどなど、この都会の一週間を一覧している。
 この日のお話しもその言葉通りで、青空市、初の街頭コンサート、DTP、平面七夕、企業メセナ、雑学大学などなど、「まちコミづくり」の本体とその周辺について、簡潔に、明快に、実践的に、具体的な数字を挙げながら語られた。地域メディアを創ろうとする人を後押ししながら、後半では、地域の構成員としての長年の経験をふまえてPR(パブリック・リレーションズ)という観点から、日本の企業メセナのあり方について注文された。

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1.『週刊きちじょうじ』について

①創刊
 『週刊きちじょうじ』が創刊されたのは、1975年。当時の東京の街には、地元の情報が意外に少なかったという。昔の田舎には、町内の情報を出す「放送局おばさん」が必ずいたのだが、都会は他人に干渉しないのが基本だったからである。

②読者
 ターゲットは、吉祥寺で何かをしようとする人だった。普通の街には、何か目的がある人しか来ないものだが、吉祥寺は違った。新宿と一緒で、目的無くぶらっと来る人がいる街だった。
 読者は大きく3つに分かれる。毎週読む人、時々読む人、そして初めて読んだ人である。人数は、3つとも大体同じくらいである。
 『週刊きちじょうじ』は、効率のいいメディアである。普通、ダイレクトメールを見て行動する人は1%以下とされるが、『週刊きちじょうじ』を見た人の場合、3%もの人が行動を起こすという。

③取材
 タウン誌の取材では、ネットワークがものをいう。喫茶店で行われるコンサートなどの情報は、ネットワークを持っていないと得にくい。しかし、昔に比べれば、簡単に作れるようになった。昔は、現場に行かなければ情報を得られなかったので、人数が必要だった。
 取材ではよく、5W1Hと言われるが、タウン誌は5W3Hなのだという。HowにHow much、How to get it加わるからだ。そうでないと、生活情報にならない。

④経費
 タウン誌で、儲けられるのだろうか。『シティロード』と『ぴあ』を見れば分かるように、それは営業の仕方しだいである。
 タウン誌で広告を取るのは難しい。が、お金貸してくれ、というのはもっと難しい。きれいに収支決済してタウン誌を止められる人のほうが、少ない。
 地域メディアは、経費の規模から、5万円メディア、50万円メディア、100万円メディア、200万円メディア、500万円メディアの5つに分けられる。
 5万円メディアは、仲間うちのメディアである。紙を持参すればOK。ただし、人件費は出ない。
 50万円メディアは、人件費は出ないので商売にはならない。しかし、印刷費はかけられる。ボランティアの組織でやるシステムである。地域メディアでは、月5万円で仕事をする人を「5万円社員」と呼ぶ。年金生活者や主婦などが主な担い手である。
 200万円使える200万円メディアになると、何人かの人で行う事業になる(『週刊きちじょうじ』は、100万円メディアと200万円メディアの間である)。
 経費は、おおざっぱに、印刷費、事務所費、人件費で3分の1ずつと考えればよい。5万円メディアとして始めるなら、とりあえず、公民館などに紙を持ち込んで、そこの輪転機を使えばいい。

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2.地域の構成員として

①人との出会い
 タウン誌を作る人は、よそから来て、その町が面白くなって始めることが多い。始めると、いろいろな人に出会い、いろいろなことに関わることができる。
 例えば、1979年に始めた吉祥寺村立雑学大学は、もう1400回以上も続いているが、今の市長はここで10回以上も話している。
 現在各地で行われている街頭コンサートの原型であるウィークエンドコンサート、武蔵野市のイベントで最も人が集まる11月の青空市、平面七夕、吉祥寺テレビ放送、武蔵野市の条例策定など、関わった事業は少なくない。ルーマニア国立ジョルジュ・ティマ交響楽団を呼んだのがきっかけで歓迎市民の会を結成した際にも、コーディネーターを務めた。
 タウン誌を始めると、いろいろな人に会うことができる。特に、様々なレベルの人とイーブンな関係で会えるのが魅力である。

②企業メセナについて
 日本の企業メセナのあり方には疑問を感じる。セクション任せになっていて、組織全体にメセナマインドが感じられない。
 日本には、オーナーカンパニーが少ない。みんな「雇われ社長」である。サントリーがメセナをできるのは、株を公開していないからである。上場してしまうと、株主の利益を無視する訳にはいかない。しかし、株主がいつも正しい訳ではない。やとわれ社長がメセナマインドを持てるだろうか。
 バブル崩壊後、銀行や自動車販売などの大企業は、『週刊きちじょうじ』の「吉祥寺生活電話帳」から撤退してしまった。広告費は1万円なのだが、本店の指示でみな止めてしまった(大型店で残っているのは、ロンロンと第一ホテルのみである)。100万円出していたのを50万円に減らすのはよしとしても、1万円をゼロにしてしまうのはどうだろうか。大きな冠をつけるイベントには関心があるが、地域の構成員として地域をどうサポートするかはあまり考えていないのである。
 最近は、商店会や会議所に入らない店も多い。お祭りなども、寄付金がなかったらできない。地域社会を支えるために何ができるかを考える視点が、企業に欠けている。地域とコミュニケーションすることを、意外に考えていない。

③PRポリシーについて
 日本人は、PRというものをたいへん誤解している。日本では、広告やイベントのことだと思われている。新聞社に情報を持ち込んで書いてもらう「提灯記事」を思い浮かべる。しかし、それは一部に過ぎない。
 PRとは、パブリック・リレーションズの略である。パブ(pub)は「公共」で、PRとは、いかにいい公共関係をつくるかということに他ならない。
 日本の会社では、広告宣伝部と広報部が分かれていて、本当のPRのエージェントが無い。広報部が、PRポリシーを持つべきである。アメリカの会社は、来週潰れる会社でもPRをしている。それだけ地域を大事にしているのである。

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おわりに
 
 お話しの後、事務局の佐藤さんが、『週刊きちじょうじ』がマスメディアからパーソナルメディアに変わったとおっしゃていた。次に手にした時には、大橋さんの顔がしっかり浮かぶ、という意味である。
 改めて手に取ってみると、いわゆる予備知識は最小限に抑えられていることに気づく。A5版というサイズは『銀座百点』を思い出させるが、目指すものはかなり異なっているようだ。
 どちらも新たな“趣味”との出会いをサポートしているのだが、『週刊きちじょうじ』は、予備知識よりも、新鮮な気持ちの方が大事だと言っている気がする。
 自分の好きなアコースティック・オーケストラの出るライブハウスの情報を探したが、見当たらなかった。その代わりに、その近くにあるジャズを聴けるレストランの情報が目に入った。全くそちらのことは知らないけれど、足を運んでみようかという気持ちになった。
 「一見(いちげん)さん」でも足を運んでみようと思わせる、情報の鮮度と敷居の低さが、この誌面にはある。何か、今出来たばかりの、なじみの客向けのそれほど凝っていないチラシを、直接店のスタッフから受け取ったような、親しみ。そんな親しみを、どっさり束ねて綴じたのが『週刊きちじょうじ』なのかな、という気がする。
 帰りに、歩きながら、「吉祥寺は専門家が多い」というお話しを伺った。どんな分野でも専門家が必ずいるので、うかつなことが言えないのだとか。何しろ、大学で教えている人だけで、600人も住んでいるそうだ。それほど広くない街だが、恐らく無いものはないのだろう。身の丈に合った、大都会なのである。
 予備知識ではなくて、訪れた人とその道の専門家との出会い。その場に生まれる、気さくで深い、語らいの方を期待している。「これを見たんですが」と言って、自分の幅を少し広げて帰ることができる、この街のパスポートという感じがした。

(織田寿文)

最終回|公開成果発表会!!

文化の縁側 in 小金井
小金井発!芸術文化を書くこと/伝えること講座 公開成果発表会!!
2008年11月14日 18:00~22:00

「小金井発!芸術文化を書くこと/伝えること講座」はタイトル通り、芸術文化について、書いて、伝えることを学ぶ講座として開催されてきました。そして、受講生のそれぞれが書くこと(=言葉)による表現、その方法を獲得すること、それによって、それぞれの活動を広げるきっかけづくりを講座は目指してきました。

公開成果発表会は、受講生が来場者へ言葉から何かを伝える場所として、そこから発表者と聴衆の双方が何らかの「きっかけ」や「はじまり」を見つけていける場所として開催されました。時間は5分。発表はスライド、映像、パフォーマンス、チラシやフリーペーパーの配布など、いかなる形式でも構いません。グループ発表OK。ただし、かならず何らかの形で「言葉」を使うことを条件としました。

発表会写真1

当日の司会は受講生の平林秀夫さん。発表5分、議論5分で10人の発表がありました。

1.間宮功「小学生の体験と表現を結びつける教室を主宰して」
「体験・表現教室」の活動ついての発表。主宰してきた教室に参加した子どもや親、家庭の環境について。家庭によって表現への意欲が違う。講座の感想と今後の決意表明。

2.椛島ちさと「よその街でやってみたこと~活動を通して~」
街なかでのアート制作や展示の経験についての発表。美術館やギャラリーの「箱」の外での活動。よその街の人となかなか交流できない。本当に大事なのは地元で活動することではないか、と考えるようになった。

3.川上幸雄「近所の芸術」
日々の散歩中に出会う公園の彫刻についての発表。日々見つめている彫刻の発想の面白さや、散歩コースに彫刻を置くことの提案。小金井で見つけたおにぎり屋さんの紹介(会場にいたWaGayaさんスタッフとのやりとりも)。

4.宮本幹江「黄金の食さがし~ハローフード~」
小金井のハローフードについての発表。仕事を探すのは「ハローワーク」、地域の食を探すことを「ハローフード」。小金井の食マップやお菓子の紹介。

5.土井利彦「即興芸」
芸術を伝えることの想いと詩の朗読。フランスの哲学者の言葉「自分自身の足で立ったような想像力が社会をつくる」という言葉。茨木のり子の「よりかからず」を朗読。

発表会写真3

5人発表が終わったところで、休憩10分。会場では、おにぎりやおかずのケータリング(WaGayaさん)、ビールサーバーからのビールやソフトドリンク(佐藤酒店)、スライドショーの上映(講座の写真、音楽は平林秀夫さん)や講座関連の展示も行われました。赤と黄のセロファンに包まれた蛍光灯も、会場の雰囲気づくりに大活躍。時間としては短かったですが、交流もできる「文化の縁側」としての場も生まれていました。

6.斉藤美菜子「小さい努力を応援する~これもメセナ?~」
「別冊味ニュース 長崎県佐世保市草加家の取り組み」チラシについての発表。企業メセナを講座ではじめて知った。家業は食品卸し。「自分でも何かできるのでは」ということから「かんころもち」の紹介チラシを作成。

7.北島久美子「竹・竹・竹」
竹文化を伝える発表と尺八の演奏。竹文化について調べ、紹介する印刷物をつくった。竹は昔から身近なものとして生活の場にあった。北畠頌輔尺八演奏『鹿の遠音』。

8.武井暁子「書の作品と私の思い」
制作した現代書(創作書道)の作品についての発表。表現する側の思いを聞くことは少ないという指摘(講師:津田先生)に応えて。街にある「文字」にもっと関心を払ってもらうような活動の提案。

9.中山由希子「『自由演奏会』―webで集まる700人楽団―」
自由演奏会と自身の活動についての発表。様々な年齢層の人が、自由に参加して、音楽ができる。人とつながれる場所。

10.早崎眞佐古「即興芸」
俳句と詩の朗読。自作俳句「睡蓮の気化熱 母は善福寺へ」。会場からは母の情景などの解釈。実は、不倫の句。自作の詩の朗読。

発表会写真2

多彩な発表に会場からの反応もあり、時間ぎりぎりまで発表会は続きました。さいごに東京外国語大学の谷先生から「全員が創作活動をしていなくても発表では自分について語っていた」、「すべての人間は芸術家である」といった全体コメントがありました。発表会では、講座最終回にふさわしく「誰もが何かを伝えることができた」のではないかと思います。そして、これをきっかけに、何かがはじまりそうな予感を残しながら発表会は終わりました。

(佐藤李青)

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