小金井発!芸術文化を書くこと/伝えること講座

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「言葉」を意識する|ルポルタージュ作品

ここでは講座Aコースの武田徹「書くことは、生きること」の課題として提出された受講生のルポルタージュ作品をご紹介していきます。

3回の講座では総まとめとして8000字のルポルタージュを書く課題が出ました。原稿は講座終了後に執筆され、提出後に講師によるコメントが付きました。課題原稿は公開を前提として作成され、講師コメント後の手直しを経て公開されています。表現題材も表現手法も自由。一つと言わず複数の作品を読み比べながら、ルポルタージュならではの多様な表現を、ご覧ください!

目次
土井利彦「料理のアルティザン 永瀬義祐のモノローグ」
椛島ちさと「鉄塔Tシャツ ~ in 川口 ~」
早崎眞佐子「美術と人をつなぐ ギャラリスト池田与汐子」
北畠久美子「21世紀も竹吹き人生で」
間宮功「台湾少年工から学んだ アイデンティティーの育て方、守り方」
平林秀夫「アーティストとの会話~二つのラジオ番組からの断片~」


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料理のアルティザン 永瀬義祐のモノローグ

東京都の西郊・小金井市。武蔵小金井駅から市の真ん中を貫く小金井街道を北に6、7分歩いたところにある小さなビストロのマスターが、今回の話の主人公だ。
 彼、永瀬義祐は、ホテル・オークラでしばらく修行し、国立でシェフをやり、さらに小金井で店を出した。店の名はフランス語で“Vin de Rueヴァンドリュ”。直訳すれば、通りの葡萄酒だから、酔っぱらい通りだと思っていた。なんのことはない、息子の名前「竜道(りゅうどう)」の「竜」の音と「Rue =通り=道」に二重にひっかけて名づけたという。
 たまさか夜11時を過ぎたころ、小金井街道を歩いていると、店の扉越しにカウンターに突っ伏して仮眠している彼の姿を見かけることがある。ああ、疲れているんだなと、声をかけるのは避けていた。
 ある日、彼の店で遅いランチを食べ終わって一息ついていると、彼は表にクローズドの看板を出してカウンターに戻り、話しかけるともなく話しはじめた。


カウンターの中の永..
カウンターの中の永瀬

 15歳で滋賀県大津の「びわこ食堂」に、ほとんど丁稚修行で入ったのが、この道のはじまりです。東京生まれですが、小学1年で親父が死んで、あとは姉貴2人と一緒に六畳と四畳半の狭い部屋で母親ひとりに育てられましてね。これはもう中学出たらすぐ就職しなければと、ずっと思ってました。とは言っても、15の春はまだ色気より食い気、とにかくうまいものを食いたい一心で、コックになれればいいかな、と。なんとか伝手をたどって訪ね歩いて、やっと拾ってくれたのが大津の「びわこ食堂」です。1967年に、はじめて大津に行ったときは、さすがに心細くって途方に暮れたときもありましたが、師匠が徹底的に基本を仕込んでくれたから、どうやら独り立ちできそうなところまでいきました。
 包丁の使い方から何からそれは事細かにたたき込まれ、師匠が「俺が教えることは、一応教えた・・・大阪の千里で万博とやらをやってるから、違った世界を覗いてこい!」。1970年のことです。それで余裕かまして、大阪万博には、10回以上通ったかな。1時間くらいで行っちゃいますから・・・。いろんな国のはじめて見る料理なんか出ていて、わたしには面白くて刺激になりました。
 名もないほどの「びわこ食堂」だったのは、その通りですが、3年経ったある日、師匠が言うには「東京へ帰れ!」。
「こんなところで、くすぶってちゃいけない。いまは、食は東京にあるんだから、あとは東京で修行しろ!」。
 でもね、まだ18歳の若造が、簡単に入れる店があるはずないですよ。それでも師匠が裏から手を回してくれたせいなのかどうか、上野精養軒に潜り込めました。忘れもしない1971年2月のことです。

 1968年5月。ダニエル・コーン=バンディの率いるパリ大学でいわゆる五月革命。わが国でも、東大医学部に端を発した東大全共闘にはじまる学生闘争が広がる。
 1969年1月。東大安田講堂攻防戦で今井澄の時計台放送「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します」を最後に収束へと向かう。
 1970年。3月によど号ハイジャック事件があったものの、日米安保条約は6月に自動継続。
 1971年。1966年以来の三里塚闘争は,政府の徹底弾圧によって急速に力を失う。この年にアメリカ大統領ニクソンは、日本の頭越しに中国との国交回復を決定した。


 神田精養軒にいた3年間で3番手になり、もうここにいてもこれまでと思い、20歳すぎの生意気も手伝って、ホテルに入れて欲しいと、上に頼みました。1973年のことでしたね。ちょうどそのときホテル・オークラの別館が開業しようとしていたんで、行きたかったんです。そのときは、うまくいかず、しばらく自由が丘の「トップ」にヘルプでやることになりました。ところが「トップ」のシェフが気のいい人で、オークラに願書を出してくれて、1年後になりましたが、面接だけでオークラ入りが決まりました。
 そのころ、伝統的な重厚なフレンチから軽いヌーベル・キュイジーヌに移っていく時期で、その両方を経験できたのは、わたしの人生で大きな収穫でしたね。
 じっさい20代でオークラにいたことは、若い時期に本格的で重厚なフレンチに肌で触れるというまたとないチャンスだったし、そのころのオークラの食材は、その辺のレストランとは大違いで、贅沢なものでした。ほんと、どんな食材も自由に使うことができて、生キャビアなんてものまで使って遊びました。
 もちろん、仕込みやなんかを入れると、朝8時から夜中の12時まで働きづめだったけど、従業員の風呂は24時間いつでもOKだし、第一、そんな贅沢な食材を自由に試して、しかも上等なワインもいくらでも試飲できたってのはすごい。
 いやいや、うちらの仲間でホテルのレストランなんかの大きなとこに行ってるシェフに言わせれば、いまの時代じゃあ絶対にそんなことはできないって・・・。とにかくコスト削減で、お客に高級食材を出しても、若いコックの訓練につかわせるっていうのはないっていうことです。
 そのあと、ホテル・オークラが東京証券会館の7階に開いたレストランに3年ほど出ました。そのとき燦葉(さんよう)出版てところの社長の白井さんが、料理の原書をどうだってんで、買いまくりました。読めない?いや、買ってから独学でフランス語をかじって訳しました。分からないところは、お客さんでフランス語できる人に聞いたりして・・・。
 訳してみると、フランスの料理人が生の海産物を扱ってたりして面白いと思いました。また、原書には絵も写真もないのがあって、でも、そういうのって想像力が刺激されますね。それにちゃんと読んで行くと、ああ、こういうことだったのかって、納得できちゃうんですよ。
 え、原書ですか。いまも5〜60冊は持ってますよ。
 好奇心ですね。とにかくうまいもの、おもしろいものがつくりたいですね。フレンチの原書もそうだけれど、NHKの今日の料理ですか、あんなの見てもつくってみたり・・・。それに、よそで出ているものは、何でも食べてみます。レトルトカレーもいろんなの食べましたし、コンビニ弁当も食べ比べたりしています。そうすると、いまの人がどんなものを欲しがっているか、よおく分かるんです。

永瀬の愛書
永瀬の愛書

 1975年。3月に東北からの就職列車が廃止。金の卵と言われた中学校卒業直後の就職も昔物語になった。4月30日、南ベトナム・サイゴン陥落。アメリカの初の敗戦が決定、しかし、アメリカはその後も世界各地で紛争介入をつづけている。
 1976年。ロッキード事件により田中角栄・元首相逮捕。刎頸の友とされた小佐野賢治の国会証人喚問の「記憶にございません」が、多くの人びとの記憶に刻まれた。
 1977年。9月、日航機ハイジャック事件、日本政府は超法規的措置により、要求のあった受刑者を釈放。
1978年。4月、巣鴨プリズン(東京拘置所)跡にサンシャイン60が開業、5月、成田開港。戦後どころか、三里塚も歴史の中に。
 1979年。3月、スリーマイル島原子力発電所事故。


 結婚ですか?25のときでした。ホテル・オークラにいたころの1977年です。それからさらに4年ほどオークラにいて、1981年に国立の「キャフェ・ド・ニュイ」というフレンチの店にシェフで行きました。いや、いまはない店ですが・・・。本格フレンチと自家製デザートで売ってた店です。そこで、わたしはパティシエにデザートづくりを教わったんです。そのパティシエもいまは沖縄ホテルの総料理長になってます。
 結婚したころから小金井市に住んでいます。最初は貫井南町、そして東町、いまは中町です。
 そうそう、国立でシェフやるときに、ほら、前原坂上の菊屋大久保酒店…地下に得体の知れないワインがある…あそこにワインの相談に行ったことがあります。京王プラザのシェフもあそこから仕入れているらしいですよ。
 1987年、35歳のときに完全に独立して、小金井に店を出しました。そのときに小金井にあった本格的な飲食って、世界の料理なんて言っていた“寺子屋”と“茶寮大”くらいでしたね。
 オープンから半年くらいは、かみさんにも手伝ってもらったけれど、基本的には一人でやることにしています。「びわこ食堂」の師匠がこう言ってました。
 「やるなら一人でやれ!誰かと一緒にやりはじめると、相手がいなくなると、そこでアウトになるぞ。一人なら考えながらやれる。けれど、二人でやっていると一人になったとき、間違いなくやりきれなくなる」。
 いやいや、ケータリング・サービスのときは、ときに100人以上のことがありますからね。そのときは、かみさんにも手伝ってもらってますが・・・

 1980年9月。イラン・イラク戦争勃発。アメリカは、イランのイスラム革命に干渉するためイラクのサダム・フセインを支援。
 1981年6月。Sくんの「パリ人肉事件」。
 1982年2月、ホテル・ニュージャパン火災。32名死亡。その翌日に羽田沖日航機墜落。24名死亡。機長の妄想性統合失調症が原因だった。
 1983年、9月。大韓航空機撃墜事件。ニューヨーク発ソウル行き大韓航空のボーイング747ジャンボ機がサハリン沖上空でソ連領を侵犯し、戦闘機のミサイル攻撃を受け墜落、乗員29人と日本人28人を含む乗客240人全員が死亡した。
 1984年。3月、「かい人21面相」によるグリコの江崎社長誘拐などのグリコ森永事件発生。
 1985年.8月、日航ジャンボ機が、後部隔壁のずさんな修理のため金属疲労をおこして裂け、空中分解し群馬県御巣鷹山に墜落。乗員乗客520名が死亡。奇跡的に4人が救出。
 1986年。4月、チェルノブイリ原発事故。メルトダウン事故により、北半球の多くの国に放射能をばらまくことになった。
 1987年。11月、大韓航空機事件。蜂谷真由美こと金賢姫ら北朝鮮工作員のテロ事件。
 1988年。7月、自衛隊の潜水艦“なだしお”が釣り船等と衝突。死者30名の惨事であったが、なだしお乗組員は救助活動を傍観。
 1989年。1月、昭和天皇死去。8月、幼女連続殺害の宮崎勤逮捕。11月、ベルリンの壁崩壊。


 もう、小金井で20年ですね。店ってのは10年1クールで、3クールいけると思いますから、あと10年。まあ、70歳まではやっていけるんじゃないでしょうか。なじみのお客さんにお医者さんがいて、5年ごとに脳を検査してるけど、問題ないしね。
 子どもには、人と同じことをやるなって言ったせいか、わたしと全然違う音響電子工学で大学院に行っちゃった。
 それにしても。年取って、つくるものへの関心が変化しましたね。昔はバターをいっぱい使ったフレンチだったのが、いまは軽めで形もずいぶん変わってきました。大きな店のシェフは、出すメニューが決められているし、そんな風に自分の関心や体調で料理を変えることができないですね。だから彼らは仕事が終わると、あっさりしたものが食いたくて、よく寿司屋とか和食に出かけますね。
 わたしなんか、ベースに鰹節つかったりしてます。野菜も群馬の生産者が届けてくれたり、小金井の農協の直売所で手に入れたりで、かなり早くから野菜中心に切り替えました。もう、肉はいいって感じです。まあ、肉って言えば、羊つかえば1人前2,620円でしっかりしたディナーができます。この間、北海道の業者から羊1頭5〜6万で買わないかっていわれたけれど、この値段で出すんだったら、ロースだけを仕入れないとできません。
 えっ、毎日食事つくっていて飽きない?いえ、わたしは365日、毎日食事つくってます。この店をやってから、休みの日も家で全部つくってますね。国立のフレンチでシェフやってたときは、できなかったですけどね。いまは楽しめるようになりました。
 お総菜づくりが、わたしにはフレンチのための糧になってます。餃子やシュウマイ、春巻きだってつくってますよ。食に関する限りは、とにかくなんでもやってみようと思いますね。

 1990年。10月、東西ドイツが統一。冷戦時代の終焉、21世紀の始まりを象徴する。
 1991年。1月、イラクの前年のクウェート侵攻に対し、アメリカを中心とする28カ国が攻撃開始。3月にイラクは全面的に降伏。ただし、米議会で前年クウェートから生還したとされる少女がイラク兵の残虐行為を涙ながらに証言し、イラク攻撃の根拠のひとつとされたが、後にこの少女は在米クウェート大使の娘で、証言は事実無根だったことが判明した。8月、1917年ロシア革命により成立したソビエト連邦が崩壊。
 1992年。6月、PKO協力法成立。自衛隊の海外でのPKO参加が可能に。9月にはカンボジアに派遣。
 1993年。1月、チェコスロヴァキアが、チェコとスロバキアに分離独立。グローバル化とローカル化(民族分離化)の同時進行の激化。
 1994年。2月、サラエボの中心部にある市場に何者かが迫撃砲弾を打ち込んだ。死者60人以上、負傷者約200人。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争最悪の銃声のひとつ。民族分離化の悲劇でもある。
 1995年。3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件。
 1996年。12月、ペルー日本大使公邸人質事件。人民の意志から離れたフジモリ大統領に対する批判として発生したもの。フジモリの強引な突入作戦で終焉。
 1997年。神戸の小学生殺傷事件。中学生Aが酒鬼薔薇聖斗と名乗って、殺害した小学生の首を中学の校門に置いた、猟奇事件として取り上げられた。
1998年。7月、和歌山カレー毒物混入事件。犯人とされる林真須美の特異性が報道されるなか、模倣犯が相次いだ。
 1999年。9月、東海村核燃料工場で臨界事故。核燃料の取り扱いのずさんさから発生。
 9月以降、神奈川県警の不祥事が続々と発覚。その後、全国の警察不祥事発覚につながる。


 10年ほど前には、1年ほど料理教室をやったこともあります。店を開けながらつづけるのは、なかなかたいへんで、いつの間にかやめてしまいました。
 コーヒー、デザートつき1000円のランチの価格設定は、小金井の創業以来、変えていません。当時のランチは高いところが850円くらいでしたから、高かったと思われたかもしれません。いや、料理の仕込みはともかく、ケーキの仕込みは時間がかかってたいへんなんです。それでよく親しい飲み助のお客さんにも言われますよ、「男はケーキは食わない」って。で、わたしは「バカヤロー、男はケーキは食うんだ!」。
 じつは、国立でフレンチのシェフをやってたときに気づいたのが、男はサラダは食べないけど、ケーキや饅頭なら食うということだったんです。コンビニなんか見てても、けっこう男がケーキ買ってますよ。
 わたしの料理については、フランス人、イギリス人、アメリカ人なんかけっこう誉めてくれますが、オペラの中丸美千繪さんに「あなたの料理なら、世界に通ずるわよ」って言われたのは、正直、うれしかったですねえ。
 ほんとうにおいしい店なら、人は山奥にでも出かけると思います。たしかに最近は、しっかりした腕の職人が東京でリストラされて地方に出てる場合もあります。でも、わたしの場合は、「びわこ食堂」の師匠に言われたように、食べ物商売をやるなら東京だと思ってます。いろんな素材が比較しながら買えますし、あらゆる国の料理が居ながらにして食べられますから…。
 最近の若い料理人は、たしかにみんな器用です。でもね、料理は教わった人の方が、いろんな工夫を加えるから、じつはうまくつくることがあるんです。ところが、いまの子たちは、教わったとおりにコピーすることは上手だけれど、工夫がないですね。おいしいには違いないけれど、あるシェフが言ってました。「うちのが独立して店持ったのはいいんだけれど、あれじゃあ俺のコピーだ。上手だけど気色悪いぜ」。
 シェフがこうやったら、わたしはこうやってみるということがないんですね。

 2000年。6月、大阪池田小事件。宅間守が大阪教育大学附属池田小学校に乱入、児童8人を刺殺し教師を含む15人が負傷。
 11月、アメリカ大統領選挙で、一般投票で50万票以上の差で勝っていたゴアが、投票人獲得で破れ、ブッシュJr.が大統領に。21世紀の民主主義の幻像の象徴かもしれない。
 2001年9月11日、アメリカ合衆国でいわゆる同時多発テロ発生。いまだその真相は藪の中だが、アフガニスタン、イラクへの攻撃の口実にされ、日本も戦争に加担することになる。
2002年。10月、チェチェン独立を要求するグループがモスクワの劇場を占拠。ロシア軍特殊部隊の特殊ガスを用いた強行突入で129人が死亡。
 2003年。3月、米軍がイラクに侵攻。テロとの戦いのはずが、当初上げた根拠がまったく虚偽だと分かったあと、いつの間にかフセインの独裁を倒すことが目的化された。12月には、ほぼアメリカの属国である日本も派兵した。
 2004年。4月、イラクで人質にされた若者に対して、政府、報道機関の一部が被害者を非難するバッシングが演じられた。これはやがて、非正規労働者への「自己責任論」という非難につながってくる。
 2005年。8月、小泉首相は、郵政民営化法案が参議院で否決されたことをもって、衆議院を解散。あきらかに解散権の濫用であるとともに郵政民営化の可否のみが問われたにもかかわらず、この選挙で圧倒的に勝利した与党は、その状況にしがみつき、その後数年にわたり、信任のないまま法案を可決しつづけている。


 でもね、レストランやってると、無性に人のつくった料理が食べたくなりますね。どうやっても自分のつくったものは味が分かります。そこで何でもいいから他人のつくったものが食べたい…松屋でもコンビニ弁当でもです。この前、隣のうなぎ屋のご主人に書類を持って行ったら、カップヌードル食ってました。わかるなぁって思いましたね。
 うちは火曜日は定休だけど、他の日は12時から14時、18時から22時に店を開けています。7月は暇ですし、土日に雨が降ったりするともう、だめですね。それで、混んでた日は店を終えても1時間くらいぼんやりして、あれこれ抜けてくのをまったりして、結局、2時過ぎに帰ることもよくあります。月曜日はもう疲れのピークで、どこで力を抜くかを考えてないと、ばったりですよ。この冬は、やたら金曜、土曜が忙しくて、日曜日のランチはとてもできなかったですね。それで定休日あけの水曜日は、いろんなことを頭にインプットしておかなければならないので、朝早く来てチェックしてます。
 休みですか?コックって目立たなくても、変な人が多いけれど、わたしは普通ですよ。買い物して飯食って、たまに「お笑いライブ」に行く。あんまりテレビなんかに出ないから知られてないと思いますが、ここんところ、パントマイムの松元ヒロを追いかけてますよ。落語も独演会なんかよく行きます。展覧会なんかだと混んでてちょっと…別に何するわけでもないですよ。
 あ、夜カウンターで寝てることですか?あれは仕事終わって、つい飲んでて、そこに知り合いがやってきたりすると、もうだめですね。夜遅くなってしまって、そんなときにちょっと仮眠です。脳の前に肝臓がやられちゃうかもしれないけれど、とにかく70歳までやってきたいですね。

 話を聞いているうちに、いつの間にか、夕闇が迫ってきた。カウンターの中で話しながら、夜の仕込みをつづけている永瀬。
 15のときから41年間、気づくと56歳。時代は高度成長から、バブル、さらには格差社会へと移ってきた。その間、ずっと料理人の道を歩んできた永瀬義祐。好奇心を失わない限り、生涯現役を通すつもりだ。いまの時代、15の若者に、このような生き方ができるだろうか。
 じゃあ、今度は、夜、飲みに行くからね。


絶品・永瀬オリジナ..
絶品・永瀬オリジナル亀戸大根のムース

(土井利彦)

鉄塔Tシャツ ~ in 川口 ~

椛島ちさと の アート活動について
~12316;川口市立アートギャラリーアトリア全館 
ART SALAD 14人展 9/23 (火)-28(日)の展示まで~




 私がアーティストとして活動を始めて早くも12年が経つ。12年もやっていれば「アーティスト」と名乗っても良いだろうか。それ程、「アーティスト」という言葉は私自身でさえ抵抗がある。もちろん、「アーティスト」として食べている訳ではない。日本でいう「アーティスト」は何故か殆ど「ミュージシャン」なのだが、「アート」を生業としている人が名乗るには、なかなか抵抗のある言葉だ。私だけかもしれないが。それでも12年もやっていると、なんとなく認めてくれる人が現れ、気にいって作品を購入してくれる人も、ぼちぼち現れたりする。そんなところからそろそろ名乗っても良いかなぁと思い、名乗ってみている。
 ここまで私自身が「アーティスト」を受け入れるのに時間がかかるのだから、一般のアートとの繋がりのない人にとっての抵抗感ははかり知れない。「美術鑑賞」の好きな方々は多くおられるかもしれないが、私のやっているような「現代アート」と呼ばれる物はやはりなじみがないのが大方であろう。
 これは美術教育にも問題はあると思うが、私は「アーティスト」自身にも問題があると思っている。一時、一本の材木を置いてアートだとするような作品が流行った。これは私にも良く分からない。「コンセプト」なるものを聞けば、まあ納得はするのだけれども。こういった作品は見る人に「分からないなら見ないで良い」と言っているようで、いかがかと思う。それまでの美術史の中で生まれるべくして生まれてきたことだとは思うのだけど、この拒絶感が一般の人を「アート」から遠ざけてきた要因の1つだと思っている。
 まして、もともと日本人は言葉で物事を明確に表現することが苦手な国民性で、同じコンセプトで作品を作っても相手に伝えようとする「言葉」が少なすぎるのだ。恐らく「現代アート」の生まれた頃の欧米の作家達は多くの議論をし、言葉を用いてその作品について語ったであろう。
 しかし、日本人においては身内での議論はあったとしても、その議論を受け入れる一般の人々があまりにも少なく、孤立してしまったのではないだろうか。
 今でも言われることだが「議論」も苦手な国民性である。残念なことでもあるが、この多くの人たちの気持ちを無視して作品を作っても「アート」はますます一般の人から遠ざかっていくだろう。
 そう言う思いから、私はいかに自分の作品がたくさんの人に受け入れて貰えるかを考え、油絵から現在の素材、表現手段に至った。
 そしてこのレポートでその表現についてなるべく言葉を用いて説明し、私の作品を通して「アート」について少しでも理解して貰えると嬉しいと思っている。


なぜ川口なのか!

 今年の3月の終わりごろ、宮川さんから「第4回 ART SALAD展」と「アトリア」での展示のお誘いメールが届いた。
 宮川さんは5年ほど前に閉鎖したGアートギャラリー(銀座)のスタッフをされていた方で、お住まいのある川口を拠点に、Gアートギャラリーで作品を発表していた作家さん中心の「ART SALAD展」をプロデュースされている。私は始めての個展をGアートギャラリーで開いており、その後2回個展をしていたのでお誘い頂いている。
 拠点のギャラリーが無くなるのは作家にとって痛いことだが、私はその頃から銀座ではない場所、もっと身近な場所、というのに興味を持ち始めた頃だった。
 Gアートギャラリー閉鎖の1年後、初めての「MIYAKAWA Produce ART SALAD展」があり、2回目のときは 川口の元・鋳物工場を利用したスペース「川口アートファクトリー」での展示も同時開催された。このときはこのスペースの直ぐ脇にそびえる「エルザタワー」を中心にした風景写真を映像にしてTシャツに投影させる作品を作った。
 私は川口以外にも前橋・市川・松戸等で展示をした際、やはりその場所を中心とした風景写真を使用して作品を作ってきた。よその場所の者がその地域に急に入っていき、何かを語ってもその場所に住む人たちには伝わらないかもしれない。しかし、展示が決まって歩いてみると面白いのだ。私が暮らしてきたところと変わらないような、なじみの鉄塔や家並み。トタンでできた小屋や工場。飾らない生活感。知り合いもなく普段は訪れないような場所で、人々の営みが私の生きている時間と同じように繰り返されていると実感する。そういう細かい発見がある「ちょっと違う場所」でやるのが面白いと思っている。なにより生活者に近い場所。銀座に来て貰うより近いところで、夕飯の買い物ついでに、なんて理想的だ。そのくらいの感覚で見て貰える場所は良い。共感を得やすいのではないかと思うからだ。希望的観測だが。
 今回、「ART SALAD展」と同時に案内されてきたのが「川口アートギャラリー・アトリア」での展示の話しだった。ただ、このときは「平面作品」を中心とした作家さん募集だったので、今の私の作風には当てはまらないかと思いためらったが、後日再度お誘いを受けたので参加することにした。


アトリアについて

 平成15年にサッポロビールが川口にあった埼玉工場を閉鎖し、その工場跡地に「リボンシティ」という大型ショッピングセンターや、住宅街区のほか近隣公園を建設し、この近隣公園の一角に作られ川口に寄贈したものが「川口市立アートギャラリー・アトリア」で、今ではイトーヨーカドーを中心に親子連れで賑わう場所となっている。アトリアの目の前は、小さな子どもたちが遊べるように芝生の小さい丘と水場がある。アトリア自体はウッドデッキに向かって大きなガラス窓があり、非常に開放的な作りになっている。床材としてサッポロビール工場の土台を支えた松杭がギャラリーの再利用されているそうだ。入口も2箇所ありウッドデッキ側を開放することができ、買い物客を呼び込みやすい作りが考えられている。実際に買い物目的で来た人がどれだけ会場に入るのかは分からないが、子供向け、大人向けワークショップが開かれており、アートへの敷居を低くする役割は大きく担っていると思われる。

 そのアトリアへは展示を見に何度か訪れたことはあるが、展示をすることを前提として見たことが無かったので、4月12日(土)に宮川さんのお誘いで下見をすることになった。
  当日、待ち合わせの14時より早めに到着し、駅前にある川口の新しい顔「キュポ・ラ」に向かう。「キュポ・ラ」は川口の豊かな財源を象徴するような充実した施設で、パソコンが自由に使え、映像の編集室なども装備された7Fにあるメディア・セブンや5・6Fには立派な図書館などがある。名画も定期的に上映され、ワークショップも盛んだ。
 そのM4FにはNGOの方々のオープンしている情報スペースがあり、4Fには市役所の駅前窓口がある。その2カ所で川口市内の資料を多少集め、まだ少し時間があるので昼食を買い込み、アトリア前の芝生の上で食べることにして、「キュポ・ラ」を後にした。

 その日の下見は宮川さん、A.S.さん、T.S.さん、私の4人で、アトリアの館長さんに案内して頂いた。
 アトリアは南北方向に縦長で、イトーヨーカドー側の入り口から受付、カフェ、奥に3室あり、「展示室A・B」と「スタジオ」となっている。西向きに前面ガラス張りで、芝生の上で遊ぶ子供達が見える作りになっている。
 まず、今回展示予定の展示室AとBを見せて頂く。その日は銅板レリーフの作家さんが展示されていた。天井高は5.33mで壁面は7.01m×10.54mこの展示室には自然光が入らないよう窓側に壁がある。(ガラス窓と壁の間は3.14mあり廊下になっている。)映像作品やライトを使ったりする作品の場合は明るさの調整が効くのでこの方が都合が良い。
 ただ、1室をパネルでA・Bに仕切っていることと、窓側にある壁で天井高の割に圧迫感がある。それと、以前はなかったピクチャーレール(作品をワイヤーで吊るすための細いカーテンレールのような物)が壁面4.8mのところに取り付けられており、これが宮川さんと平面作品を展示予定のA・Sさんが気に入らなかったようで、隣の「スタジオ」の方も見せて貰うことにする。
 こちらは窓側に壁はなく、外の光が直接入ってくる広々とした空間だ。「スタジオ」ということで「ワークショップ」が開かれたりするので、流しや銅版プレス機等が置いてあり、床・壁面が多少汚れている。しかし、隣の部屋に比べると明らかに開放感があり、天井高も活かされている。壁面は11.76m ×13.70m、前面は床から2mくらいまでの高さの大きなガラスで幅11.76mある。私は銅版画プレス機の置いてあるコーナーがとても気に入った。2.27m×2.88mの飛び出るような一角で側面もガラス窓が天井近くまであり、光が降り注いでくる。この銅版画プレス機が無ければとても良い場所であった。もちろん展示の時にはどかせるだろうと思い私はこの場所を、ということになった。
 宮川さんを始め他の2人も気に入ったようで、「スタジオ」の方を予約する。
 しかし、後日この銅版プレス機が移動出来ないということが分かった。確かに400kgあるプレス機を動かすのは無理だというのは、以前「版画工房」に勤めていたので途中から薄々気づいていたが、どうにかして欲しいなぁという希望が強かったので、非常に残念だった。しばらくなんとかそこを使って展示することを考えても見たが、良い案も浮かばず、もんもんとしていたところ、別の作家さんでそのプレス機を隠すような作品を作ってくれるという方が現れ、なんとかその問題からは解放された。
 ただ、ならば何処に展示するかがまた問題で、改めてまた下見に行くことになった。

5月4日(日)連休の中日に2回目の下見に行く。
 この日は私の他にまだ下見をしていない作家さん2名が来ていた。前回おおまかに展示場所を決めてしまっていたので、私は一体どこに展示したら良いのか不安な気持ちで臨んだのだが、いつの間にか宮川さんに窓側に割り当てられて、作品のイメージもさして崩れないので、なんとなく納得し、窓に物を貼るための指定のテープや、釘打ち可能な場所等を聞いて、アトリアを後にした。

川口の風景を収集する(写真撮影)

 その後、アトリアの隣にあるショッピングモールのArio内でお昼を食べ、14時頃宮川さんと他の作家さんとも別れ、数日前に目をつけていた川口ジャンクション方面に写真撮影に向かう。
 川口の地図を見ながら、この話しを貰う前にはまっていたジャンクションがあるのを発見し、Googleであたりをつけて航空写真を見ていたら、更に発見!ジャンクション側に赤白鉄塔があるではないか!!
 この下調べに興奮しながら川口駅東口、そごう前よりバスに乗り、目的地に最も近いバス停「神根支所」に向かう。途中、「青木」という地名のところあたりでも鉄塔郡を見かけ、次回はこの辺りと狙いを定める。
 バスを降りると生憎の曇り空。鉄塔はほぼ見上げの状態で撮るので青空が一番決まるのだが。しかしここまで来たのだからと思い直して歩き始める。辺りの目印はとりあえず何も無く、住宅街と工事中のような造園屋さんを通りながら地図と住所を見比べながら進む。小金井市も造園業が多いが、川口もまた規模の大きい造園業の町であることが分かる。近くに「グリーンセンター」なるものもあり、それを象徴しているようだ。
 そう思いつつ緑の山を見上げていると、発見!赤白鉄塔である。その位置からは遠いので写真の対象にはなりにくいが、見つけさえすれば後は電線を追えばよいので簡単。電線をジャンクションのありはずの方向へ向かって追っていく。住宅の角を曲がり少し開けると、やはり見えた。ジャンクションだ。そしてこの広がりは造園の畑のおかげである。
 ジャンクションと赤白鉄塔、望み通りの光景に興奮しながらも、これが青空だったら・・・と悔しくも思う。今回の作品では写真を透明フィルムに出力して 窓に貼ったりもするので、「色」がないと映えないのだ。そして撮っている対象物を言えばかなり彩度の低いものばかりなので、「青空」に頼りたくなるのだ。まして、「ジャンクション」はかなりモノトーンである。当然車の往来は多いが、歩いている人も殆どいない。歩いているうちには産廃置き場なんかが見えてきて、殺伐とした感じだ。ジャンクションの反対側に行こうとしたが、外環自動車道の真下をくぐる排ガスで真っ黒に汚れた誰も渡っていない歩道橋を渡る気になれず、断念してしまった。
 そして、曇天はますます極まり、想定のルートを歩き終わる頃にはポツポツと降ってきてしまった。

7月12日(土)芝川の西側の岸辺に沿って歩く。
 5月に当たりをつけた「青木」というところを調べたところ、近くに「芝川」という川があった。川沿いは比較的鉄塔が多いので、これも期待が大きい。やはり川口駅のそごう前より「鳩ヶ谷団地行き」のバスに乗り込み、「上青木5丁目」というところで降りる。大き目の道路沿いに懐かしめの商店がいくつかあり、川のありそうな方向を見るといきなり鉄塔発見だ。しかし、それと同時に「鳩ヶ谷市」の看板も見える。今回は「川口の風景」がテーマであるので、これではまずい。趣味用に1枚撮って、道の先の橋になっていそうな方向へ向かって歩き始める。橋に至る道が上下2つに分かれ、上の橋へは車しか行かれないように見えたので、下の方の道を行く。すると、土手が現れ「芝川サイクリングロード」となっているので、その道を歩くことにした。鳩ヶ谷との境にあるからか、橋は「境橋」と言う。川口側に立ち、反対岸の向こうに見えるのは住宅外とJUSCOを中心にしたショッピングモールである。
 川口はその昔鋳物工場の多い町で有名だったが、私の見るところ高層マンションがぐっと増え、人口も増加したに違いなく、そういった大型商業施設も増えている。マンションも商業施設も恐らく大方鋳物工場の跡地に立っているものが多いであろう。
 その、住宅街の向こうには「川口グリーンゴルフ」、その向こうに赤白鉄塔。これは5月に歩いたジャンクション側を通っている鉄塔ラインである。この時点ではもう1度ジャンクションの方へも行きたいと思っていたが、芝川沿いの良さと、あまりの暑さに断念することになる。
 歩き始めの境橋はところどころ土手に大きめの木があり、日陰もあったのだが、上根橋を過ぎるとそれもなくなりひたすら暑さの中を歩く。ときどき高校生と買い物の主婦の自転車とはすれ違うが、歩きの人は見かけない。「熱中症」が心配される暑さなら仕方ないか。
 上根橋から下流方向の景色は鮮やかなペンキで塗られた工場と、薄いグレーの鉄塔が太陽で白く輝き、とてもきれいだったので様々な構図で狙う。
 橋を渡り今度は反対側から青木町方向を見ながら上流の地蔵橋に向かって歩くことにする。
 橋の袂には松葉ボタンが咲いており、この花を入れて鉄塔を撮る。このあたりから桔梗や葵、凌霄花などが咲いており、私としては珍しく花を中心にした風景を撮る。
 芝川沿いに歩いて橋を3つ分渡った辺りで、頭がくらくらしてきたので終了することにした。そして、バスを待っているうちには雲行きが怪しくなり、またしても大粒の雨に降られることになった。
 何故か今年の川口での撮影は行く度に雨に降られている。

ジャンクション付近と芝川沿いを歩いて気付いたこと
 「川口」というだけあって「川」に寄って発展してきた町なのかもしれない、ということだ。川があれば江戸時代から流通に困らない場所であっただろう。荒川から支流が幾本も伸びていて、隅々まで物資が行き渡っていたはずだ。これが川口の豊かさの1つの要因なのだろう。しかも現代の流通の要の高速道路のインターチェンジまであれば、発展は現在まで続いていて当然である。それでいて豊かな緑もあるのは、素晴らしいことだ。
 そして、この「川」や「道」というのは作品化して行くにあたって大事な案内役なのだ。

作品化するにあたって

 以上のように私は展示の前にその場所の風景写真をたくさん集める。この2日間の他に以前歩いた場所の風景写真も使用しようと思っている。歩き回るとかなり広く、全ては周りきれていない。それは市民にとっても同じなのではないだろうか?自分の住む小金井でさえそうなのだから、川口程広ければ行く先も決まってくるだろう。
 そういった場所、公の施設でもなんでもないような場所。暮らしのある場所。そういう場所に人々が同じように暮らしていて、訪れない場所はある。そういった風景を自分のものとして、見ている人のものとして受け取ってもらうために、Tシャツという素材を使う。
 私があらゆる風景を目の前にして、いつも感じていることは「自分」の存在である。これを形にしようと思うとき、その場にいた自分を反映したくて仕方がない。以前、平面の絵画を描いていたときは、自分はそういう気持ちでいっぱいだった。しかし、見てくれる人はどうだろう。絵の中の風景にまで潜り込んでみようという気持ちになってくれるだろうか? もっと身近に、もっと親近感のある形で、アプローチできないものか、そういう思いから「Tシャツ」という着ることが前提の身近な素材に行き当たったのである。
 「風景」は写真をTシャツにアイロンプリントして、私よりも客観的な「カメラの見た風景」と、私自身が見てきて「心に残っている線」を糸で描くように縫い付けて、それぞれを繋いでいく。別々の風景でも少しのズレで繋がっているという意図がある。
 
中村良夫氏の「風景学 入門編」「風景学 実践編」を読んで

 風景画というと一般的に、海、山、川、田園風景、都市の街並み等、様々な場所が古くから描かれてきた。しかし、それらの中には実際には見えているはずの物で、風景を感じる上で大事な要素が除外されているという。それは、必ず視界に入るはずの自分の体だそうだ。人は必ず自分の体越しに風景を見ている。これは風景を見るときには脳の中では必ず「自分」を認識しているということだ。常識的に自分は見えていないと自ら思い込んでしまっている。しかし、自分がその風景に入り込んで、自分の肉体と比較して1つの風景と感じているのだ。ということは、風景に対峙して自分を意識するのは当然のことなのだ。これは、私が考えて作品化していることに合致しており、こういった考え方があるのを知り自信を得た。

臥遊
 古くから歌や絵画に読み込まれてきた「風景」は、自然が中心であっても必ず其処に人や家など、人のいる気配を漂わせたものが多いとの事。それが、その物語に入っていくためのポイントとなっていたのだ。山奥の小屋で書を読む僧や、山襞や川辺などを目で追うことで、その山水画の中に入り込んで景色を楽しむ。そういう約束事があったのだそうだ。
 私自身も風景を扱うときは、人物を描かないが、人家など必ず人の息吹を感じるものが中心となる。それと合わせて中心となるのが「鉄塔」や「路地」たまに「立体交差」などである。それは「その先」を暗示させる物である。その電線に沿っていくと何処まで行くのか。その路地の先には何があるのか。立体交差ではどの道に乗るのか。選んだ先は何処なのか。いろんな「その先」があるのだ。そう言った物に興味が湧くのはいにしえからの物だったのかと、これも得心した。
 そしてこの川口には川も鉄塔も大きな道もある。小さな路地もある。「絵」になる風景がいっぱいあるのだ。

自己認識
 近頃はブログでの書き込みで自己確認をする人が多いようで、反応がないことで自信を失ってしまう人が僅かにおり、自暴自棄になって殺人を犯す人も出てきている。悲しいことだと思う。
 私もPhoto Logという形で写真をブログという形で公表しているが、コメントを貰っても返せないまま、反応は無くなってしまった。それでも僅かながらに見ていてくれる人はいるようで、確かにやりがいはあると思う。しかし、そこで自分の存在を確認しようとは思っていない。
 何故だろう、外へ出てみれば自分に風があたる、突然の雨に降られる、大きな山に吸い込まれそうになる、巨大な人工の構築物に圧倒される、そういったことでも自分というものを感じることは出来ないだろうか?
 ましてそういった風景の中には人が生活しているのだ。確かに全く関わりはないかもしれない。実際私自身は人見知りで、積極的に人に声をかけたりしない。しかし、全ての人と関わりを持つこともまた不可能であるのだから、僅かなふれあいでも自分自身を認識することは出来ると思うのだが。
 そういった薄れいく人間の関わりを無理にでも繋げていく、繋がっているんだという意味を込めて、特別でない風景の写真がプリントされたTシャツに、糸を一針一針縫い付けて繋げていこうと思っている。
 そして、これが展示スタジオの窓から外へ向かって展示することで、なるべく多くの人の眼に映るようにしたい。

 なんかTシャツが干してある、よく見たら川口の風景が繋がってる。
その人の知っている風景かもしれないし、知らない風景かもしれない。でも、皆繋がっている。
そのTシャツを着ていることを想像して。そこに自分が在ることを感じて欲しい。
 そう言う気持ちが伝わるような作品作りを、さすがにもう始めなければ・・・・。


以下 実際の展示の詳細です。
作家さんの一人一人が同じようにご自分の思いを込めて作品を発表します。
お時間の都合のつく方は是非,お越し下さい。

第4回ART SALAD展
2008年9月22日(月)〜10月5日(日) 
    会期中無休  10時から最終日は19時(17時)

現代アート・36人の作家・ART SALAD展開催

会場: masuii R D Rギャラリー
     川口市幸町3-8-25-109
     JR京浜東北線川口駅 東口徒歩6分
会期: 9月22日(月)〜10月5日(日) 14日間です
     会期中無休  10時から19時(最終日は17時)

同時開催
川口市立アートギャラリーアトリア全館 ART SALAD 14人展 9/23 (火)〜28(日) 無料
 9/23 12時〜18時 9/24〜28 10時-18時  (入館は17時30分まで)

上畠益雄 小原典子 笠井千鶴 椛島ちさと 河合悦子 小林信恵 佐藤朋子   
佐野純子 白木稔久 須藤彰子 瀬沼俊隆  中川るな 古澤優子 源由紀子

アクセス: JR川口駅(京浜東北線)東口から徒歩約8分。駐車場はありませんので、
      公共交通機関をご利用ください。
開館時間: 10時~18時(入館は17時30分まで)
休館日:  毎週月曜日※月曜日が祝日の場合はその直後の平日

お問い合わせ:川口市立アートギャラリー・アトリア
郵便番号:  332-0033
       埼玉県川口市並木元町1-76
       TEL 048-253-0222
       FAX 048-240-0525
       URL:http://www.atlia.jp/

巡回展
ART SALAD韓国巡回展 (ソウル・インサドン)
2008年12月17日(水)〜12月22日(月)
10時30分~18時30分

会場 :KWANHOON gallery クァンフンギャラリー
住所 :195KWANHOON-DONG,CHONGRO SEOUL 110-300 KOREA
URL :http://www.kwanhoongallery.com

椛島ちさとのHPです。
URL:http://members.jcom.home.ne.jp/c-kaba/
これまでの展示の様子をアップしています。

(椛島ちさと)

美術と人をつなぐ ギャラリスト池田与汐子

「誰もが入れる,美術の扉を開けるギャラリーオーツー」

 美術一般から現代工芸、その他を含め、年間20回もの企画展を展開しているギャラリストの池田与汐子さんをお訪ねしました。今日は、池田さんの人生の軌跡やギャラリー哲学などをお聞きしたいと思います。
 池田さんのギャラリーは大田区の大森駅から蒲田行きのバスに乗り、3つ目の「大田文化の森」バス停で降りて、徒歩2分ほどのところにあります。外から一目で中の様子がうかがえる木枠のガラス張りで、あたたかな感じのギャラリーです。中は真っ白な壁、作品を展示する作家さんへの敬意とその作品を見に来られる方々への行き届いた心使いが感じられます。
 池田さんは会期中にも関わらず、気持ち良くインタビューに応じて下さいました。

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ギャラリーオーツー
 私が伺った7月15日は「銅金裕司のCO2キャッチャープロジェクト展」が開催されていました。
 学校帰りの小学生がギャラリーいっぱいに膨らんだ大きい透明な風船に興味津々という感じで覗き込んでいます。池田さんがドアをあけて子ども達に手招きしました。女の子一人と男の子二人は冒険にでかけるような目をして、入ってきました。
  「池田さんはどんなお子さんだったのですか?」


*ワイルドに育つ
         
 私は母の実家があった岐阜県の山奥で生まれました。周りは男の子ばかりでした。豊かな自然に囲まれてワイルドに育ったようです。とにかく手に負えないお転婆だったようです。ある日、何かお祝いでもあったのか私は覚えていないんですが、母が私に白いドレスを着せたそうなんです。昔は雨が降ると大きな水たまりができたでしょ。水たまりが好きだったのか、白いドレスドロドロにして遊んでいたようです。とにかく男の子も一目置くようなお転婆な子どもだったことは確かですね。
 ですが5歳の時に祖父母のいる岐阜から、愛知県下の城下町で両親と妹の4人で暮らすことになりました。そこは簡単にはよそ者を受け入れないような気質の町でした。遊ぶ場所も周りの子どももがらっと変わった場所で、私は隣近所に監視されているような息苦しさを子どもながらに感じていました。高度経済成長時代でそれも学力偏重の特に強い愛知県でしたから、押さえつけられるような環境は返って私の反抗的な性格を刺激したかもしれませんね。                            

ギャラリーオーツー
 子ども達はすぐ帰るつもりなのか、ランドセルを背負ったまま、手には大きな手提げ袋も持っています。逃げの体制を崩さない子ども達の様子が少し可笑しく思えます。大きな風船が部屋に入っていることも不思議なことですが、風船の中に植物が飾られているのも不思議な光景です。「ランドセルと荷物置けば」と池田さんに言われ、やっと肩からランドセルを下ろした子ども達でした。「風船の中に入ってみれば」と言われても子ども達は怖いようです。女の子に勇気のなさをなじられ一人の男の子が風船の中に入ると言いました。入ってみると「空気が美味しい」と言います。「どうしてなんだろう?」これが銅金裕司さんのねらい通りの五感を使ったインスタレーションです。
 「愛知県は教育熱心な親が多いそうですね」


*絵を描くことが好き

 私も今で云うような「お受験組」ですね。中学、高校と名古屋市内にあるカトリックの有名私立の女子校に通いました。私は好きではありませんでしたが、その当時はかなり目立つ制服でしたし、ベレー帽を被って歩くのが恥ずかしかったですね。家を出るとさっと鞄に入れましたよ。学校が遠いので近所の子どもと遊ぶこともなく、学校の友達と遊ぶこともなくちょっと寂しかったかな。長女の私だけが遠くに行かされているという寂しさと、親の期待に応えなければならない重圧はありましたね。でも気が強いというか、とにかく反抗的だったと思いますよ。自分を頑なに守りたい意識のどこかで表現することに気持ちを変化させていきました。母は絵を描くことが好きでしたし、私もそんな母の影響もあったのでしょうね、小さい時から絵を描くことが好きでしたから、何度も表彰されました。自分のイメージをビジュアル化させることは楽しい遊びでしたね。いつの間にか自分の進むべき道は美術しかないと思うようになりました。その当時はカトリックの女子校から美大に進学する生徒などいませんでしたから、曖昧な受験勉強はすっぱりやめて進学はせず、その頃彫刻ではかなり有名な日展作家のもとに弟子入りすることになったのです。

ギャラリーオーツー
 風船の中の男の子は転げ回ったり、走ったりしています。風船の外ではアナライザーの数字とにらめっこをしている友達が「あがった、あがった」と言っています。何が上がっているのでしょう。それはCO2の値が上がっているのです。風船は地球を表しています。子ども一人が風船の中に入った時、風船の中には酸素がいっぱいあったので空気が美味しいと感じたのでしょう。酸素を消費しているのが自分自身であることにはまだ気づいていません。
  「彫刻家もその当時では、女性は少なかったのではありませんか」


*彫刻家から美術商へ

 弟子入りしてからは粘土を錬ることから、大工仕事、左官仕事、鋳物に至る何でもしましたし、母が建ててくれた自宅のアトリエでは木彫、石彫、ブロンズの制作に情熱を注いでいました。しかし心の片隅には追求すればするほど、これではないという思いが湧いていました。一人の作家のアトリエで学ぶという小さな枠から、外の世界や新しいことへに挑戦したい思うようになり、彫刻から気持ちが離れていくことになってしまったのです。デザインや服飾関係のアルバイトを始めてまもなく、私は有名デザイナーや東京芸大の教授達を含む美術愛好家とともにヨーロッパへ美術鑑賞ツアーに行きました。その当時ではめずらしいツアーだったそうですが、私は20歳で、贅沢な海外旅行に最年少で参加することになりました。中近東の砂漠を越え、西ヨーロッパを巡るというダイナミックな旅でした。憧れの美術を目で肌で感じましたし、偉大な彫刻や芸術を生み出した空の色、海の色、空気全ては想像を超えたものでした。それから何年か後に縁があって美術商という絵を売買する仕事につきました。

ギャラリーオーツー
 子どもたちはCO2が二酸化炭素であることも二酸化炭素がどうして二酸化炭素になるのかもわかりません。小学校3年生では少し難しいようです。しかしテレビで聞く言葉としては知っているのです。  銅金裕司さんのインスタレーションには次のようなプレスリリースがついていました。 『いま、地球温暖化のためCO2削減が叫ばれています。電気を消したり、ゴミを分別したり、その活動はみんなに我慢を強いるもので窮屈な気分です。とはいえ、それらは、どうも本質からずれているような気がします。なぜなら、問題は、地球からせしめたガソリンなどの化石エネルギーの過剰な浪費にあるからです。その浪費はあいかわらす続ける一方で、CO2放出の節減を声高に叫んでいるわけです。この地球の資源を節約しつつも使う、というあくなき欲望。しかしまことなる問題解決は「地球への負債返済」ではないかと考えます。この展示ではこのことを本気で考えたいと思います。それは人類の浪費からすればあまりにも微量ですが、植物の光合成はその返済を手伝ってくれることです。いっぽう、光合成の酸素のの放出がなければ、すべての動物は酸素不足で窒息して死んでしまうでしょう。CO2キャッチャープロジェクトでは、このように植物の存在の重要性に気づき、きちんと地球からの借りを本気で返すことを、みんなで楽しく、美しく実行してゆくことを提案します。自然界への感性を回復していくことが、私のアートの活動だと思っています。』
 「本物に触れたことが美術商になる基盤を作ったのでしょうか」


*自分が試されるスリリングな仕事

 美術商になってから美術を商品として取り扱う側になり、次第に仕事としての面白さを感じるようになりました。人が作ったものに値段を付けそれを売買する仕事は、楽しくもありまた、自分の五感を絶えず磨き研ぎすましていなければなりません。時には大きなお金が動くリスクの高い仕事です。美術の知識と見極める感性と商いの勘所が必要で、常に自分が試されるスリリングな仕事です。しかし自分が良いと思ったものに決定的な評価を与えるのはお客様です。この商売の醍醐味は、ほんの一瞬でも美術品を誰かと共有できた時で、その嬉しさはひとしおです。一つの作品を中心に人と人が繋がり,作り手の魂が人に乗り移るのです。私は銀座に画廊を構えてから、パブリックな空間を持つ意味合いを求めるようになりました。ギャラリーが多く美術関係者や愛好家が行き交う街でのギャラリー活動は自分も試されている自覚があり、充実した日々でした。

ギャラリーオーツー
 風船から出て来た男の子が他の二人に「お前も入ってみろよ」と得意げに言っているのが聞こえてきます。「うん、明日ね」「明日も来ていいでしょ」「いいよ!」と軽く池田さんは応えて子ども達に風船の説明を始めました。そこへ銅金さんがギャラリーに入ってきました。「このおじさんが作ったんだよ」「何か聞いてみたいことあったら、聞いてね」
 銅金さんは子ども達の質問にはあまり答えたくない様子でした。そんな銅金さんを見ていて思ったことは、知ることも大切だけれど感じることはもっと大切なのだということかもしれません。
 風船から出て来た男の子が笑顔で話かけてきます。池田さんはカナダ人の旦那さん(修復家)とはいつも英語で会話しています。そのストレートなしゃべり方は日本語でも同じようにストレートです。池田さんはきりりとした、きれいな方です。はっきりしたしゃべり方をされるので、ちょっと日本人離れした感じがします。そのせいか日本人の曖昧なものの言い方に慣れた子どもには、ちょっと怖そうな感じを与えているのかもしれません。ギャラリーにはだんだん人が集まり始めました。
 「大きなお金が動くというのは、確かに大変なお仕事ですね」


*日本からロンドンへ
 
 30代後半で銀座の画廊を一緒にやっていたパートナーと別れ、単身イギリスに行くことを決意しました。ヨーロッパには定期的に行っていましたし、ロンドンは美術マーケットの中心なので行くならロンドンと決めていました。ロンドンでは前からつながりのある美術商とのコネクションもあったので、美術商として「ロンドンでやっていこう」と小さな目標をたてました。次第に充実した仕事ができるようにもなりました。それは自分でも手応えを感じられた時期でした。
 イギリスは当時不況のまっただ中、日本はバブルのまっただ中でした。日本の景気に助けられプロジェクトを立ち上げました。それはイギリスの代表的な作家2名のコレクションカタログを作り日本に紹介するというものでした。この二人の偉大な作家のカタログは小さな本でしたが、大きく手がけたことで作品も沢山取り扱いました。このカタログはイギリスの国立美術館TATEギャラリーに500冊ほど買い上げられました。私のような外国人ディーラーの作ったささやかなカタログが国立美術館に買い上げてもらえたことは、光栄なことです。私自身励まされてる思いでした。自分にとって満足の行く仕事ができましたし今の連れ合いと出会うこともできました。イギリスには外国人の美術商も沢山います。先輩画商達と付き合いながら日々勉強することはいくらでもありました。怒濤のような濃密な4年間を過ごした後、無性に日本が恋しくなり夫と長女と三人で帰国しました。日本はバブルがはじけた後でした。美術業界にも暗い兆しが漂っていました。

ギャラリーオーツー
 大人達がどんどん風船に入っていくのを子ども達は不思議そうに見ています。何やら楽しそうにアナライザーの数値を確かめています。「もうすぐ警報鳴るんじゃない?」「ほらもう1000越えちゃったよ」「いや、まだまだ大丈夫」「頭クラクラしてきたら出ようかな」という会話が聞こえてきます。子ども達がそんな大人達が面白そうにしているのがわからない感じです。
 日も暮れて子ども達は帰る時間になり「また、明日来ても良い?」「いいよ」「じゃあ、明日来るね」と言って家に帰りました。風船を囲んで色んな人が集まり、話をし笑ったりしています。
 「ロンドンでの成功があったのに、日本が恋しくなられたんですね」


*美術と人を結ぶ

 日本に帰ってからの再出発は困難を極めました。自分の身の置き所やどこから手をつけていいのか困惑ばかりの日々が過ぎ、崖っぷちまで来た時、日頃からためていた思いをとにかくやってみることにしました。自宅の一部を解放しそこで作家展を始めました。自宅を開放した日常の空間を使うことで、今まで心の片隅に抱いていた工芸への興味がふつふつと湧いて来たのです。あらためて自分が担う役割を与えられたような気がしました。陶芸のように日常食器や花器など生活に密着した工芸品を紹介することで、今まで美術などに興味のなかった人たちにも違ったスタンスで作品を売ることができるようになりました。このような生活に密着した工芸は、美術愛好家が美術を鑑賞することとは違い、まずは工芸家の作品がこのギャラリーで生活者と出会うところから始まります。そして作品を買った人は洗練された生活道具を使うことで日常に潤いを得るるだけではなく、ものに込められた魂に触れます。自宅開放のギャラリーからまた一歩踏み出すことにしたのは、工芸だけに留まらずより身近に美術と人を結ぶことが出来るようにしたいという思いがあったからです。そこで自宅近くに小さいですがギャラリーを持つことにしました。

ギャラリーオーツー
 子ども達が帰った後酒盛りが始まりました。銅金裕司さんは海洋学を修めた後植物生理学、園芸学を修め現在は学術的研究とともにテクノロジーを駆使した植物のインスタレーションを各地の美術館やギャラリーで発表し話題を集めています。ギャラリーオーツーでのインスタレーションはティランジアという水と二酸化炭素で生きる植物を使い大きな風船を地球に見立ててCOPを検証するとともに、私たちの鈍った五感を取り戻すべく今日の危機的事態への啓発とメッセージを込めたそうです。銅金さんの教え子達も集まり話に花が咲いていつの間にか夜も更けて行きました。
  「自分の役割を与えられたような気がしたというのは?」


*美術愛好家だけでなく、もっと広く美術が行き渡るためにはどうしたらいいかを追い続ける
 
 今回のインスタレーションアートもそうですが私は美術、工芸、デザインの分野で活躍している作家を取り上げていこうとしています。節操がないと言われるかもしれません。でも私は器も壁に掛かる一枚の絵も風船のインスタレーションも我々の生活に必要だと考えるからです。私の独断と偏見のスタイルがどこまで続くかは私自身のチャレンジです。一枚の絵を得ることは贅沢なものではないのです。人の作ったもの、人の手と知から生まれたものを愛でるという行為は感性を刺激し五感を磨きます。そして気持ちが豊かになって幅広い目で物を見て、考えられるようになるでしょう。私は美術愛好家だけでなく、もっと広く美術が行き渡る為にどうしたら良いか絶えず考え続けています。ギャラリストとしてのポジションは、このささやかなギャラリーの中で皆さんよって育まれていくのです。

 今日はお忙しい中インタビューにお答え頂きありがとうございました。
 銅金裕司さんの風船地球号も面白くティランジアという変わった植物にも出会うことが出来ました。
 池田さんのお人柄に惹かれて画廊に足を運ぶ人も多いのではないでしょうか。これからもいい作品、作家をどんどん紹介してください。楽しみにしています。

インタビューを終えて
 池田さんの美術に対する熱意が感じられるインタビューでした。幼い頃から描くことの才能を持ち、周りからも期待される子どもだった池田さん。生まれ持った知性と感性は鋭く、故に自ら問い、模索し、追求し続ける人生を選んだ気がします。話の中で、早くから池田さんの才能を見いだしていたお母様が幾度となく池田さんにチャンスを与えていることに、深い愛情を感じました。誰でもが入れる美術の扉を開けて日常に潤いをもたらしてくれるギャラリストとしてますます興味が湧いてきました。

ギャラリーオーツー
〒143‐0024
大田区中央3‐2‐16
03‐5709‐9840
e-mail:gallery-o2*nifty.com
(*は@に変換してください)

(早崎眞佐子)

21世紀も竹吹き人生で

(一) 20世紀最後の年から

(1) 小学校での演奏会

 2000年、平成12年20世紀最後の年である。ミレニアムと騒がれ、3千年紀の始まり、いや2千年紀の終わり、20世紀の終わり、いや21世紀の始まりといろいろと論議があったようだが、私たちは「20世紀最後の年!」だ、とはりきって第5回目となる『琴古流北畠頌輔尺八演奏会』の計画を考えていた。
 その計画の前に、かねてより「子どもたちに日本の音楽を聞かせたい」という願いが実現出来ることになった。さっそく、6年生の音楽の鑑賞曲になっている「春の海」の作曲者宮城道雄の随筆を読んでみた。その中に自身の生い立ちについてふれ7、8歳のころ何よりもつらく感じたことが学校へ行けなかったこととあった。今の子どもは登校拒否とかあるが、宮城道雄は眼が悪いばかりに学校へ行けなかったのだ。そんな道雄の思いを子どもたちに知らせたくて子どもたちの年齢に近い道雄の7、8歳から16歳頃の生い立ちを選んで紹介した。
 裏面は邦楽音楽事典で和楽器の絵をコピーし準備を始めた。

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 児童に配ったプリント 表(一部分)
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 プリント 裏

 学期末の忙しい時期であったが、この作業は楽しかった。
 当日、2月23日の1:15~2:00。 私の勤務校中野区立啓明小の体育館で日本の音楽に親しもう《啓明小おことクラブ発表会+箏、尺八を中心とする和楽器による演奏会》が開かれた。おことクラブの児童たちは初舞台が大舞台とあって「どうしよう。どうしよう」とそわそわしていたが、演奏会開始前に私の箏の師匠である新宮順子先生からきれいな音の出し方などを教えてもらったり、私の「貴方達はもう上手なのだから自信を持って弾きなさい」の言葉に励まされたりで、何とか初舞台を終えた。
 次は新宮先生の企画で箏、尺八、三味線、十七絃、胡弓、笙、鼓、太鼓などたくさんの和楽器による『越天楽変奏曲』箏、尺八二重奏『春の海』、尺八『鶴の巣籠』などの演奏である。それぞれの奏者による楽器の説明もあり、ほとんどの児童は、初めて見たり、聞いたりする楽器だったことだろう。私は『越天楽変奏曲』に参加したり、司会をしたりしつつ、自分の学級にも目を配る等忙しかったが、プロの方々による一流の演奏会を子どもたちに聞かせることが出来てうれしかった。尺八を担当したのは私の夫、頌輔である。
 演奏会後各担任に協力してもらい感想文を書いてもらった。120余人の感想が寄せられ、それを夢中になってワープロに打ち込み、製本して出演して下さった方々に渡した。
 子どもたちは結構聞いてくれて一生懸命感想を書いてくれている。その中から1つだけ紹介しよう。

【私は、プロの人たちの合奏が始まる前3年生の私に、プロの人が弾く、お琴の良さが、わかるかなぁと思いました。だけど、聞いてみたら、楽しくわかりやすかったので、とても、こころにのこりました。
 今でも、あの高かったり、ひくかったりする音が聞こえてくるような気がします。
 尺八とおこととたいこなどの音が、かさなって聞こえてきたとき、体が宙にうくみたいに、ふわっと、すずしいかんじの気持ちになりました。】(3年生)

 子どもたちからたくさんのエネルギーをもらった私たちは毎年12月と決めていたリサイタルの用意にとりかかった。
 
 *啓明小には翌々年、箏尺八の体験を挟み込んだ鑑賞教室。真竹から尺八作り、マイ尺八での簡単な演奏等の授業で、ゲストティチャーとして頌輔は数回通い、子どもたちと交流し、エネルギーをもらっている。

(2) 『尾上の松』 

 20世紀最後の曲は『尾上の松』と早くから決めていた。頌輔はこの曲に出会っていなかったら、尺八など続けていなかったかもしれない。あれは30年ほど前のある演奏会である.終曲は『尾上の松』。頌輔はまだ習っていない曲であったが、最初の一音、ツレーでこの曲に入り込み、自分の魂が宇宙に飛んでいってしまったかのように感じた。金縛りにあったように演奏が終わってもしばらくは立ち上がれなかった。この『尾上の松』という曲はなんと素晴らしい曲なのだろう。日本一、いや世界一の名曲、これにかなう曲はない。すごい曲だ。自分もこんな素晴らしい箏や三絃を相手に思いっきり吹いてみたい。「よし明日から仕事の終わった後最低2時間は尺八の稽古をしよう」そう決心したのである。そして、「尺八吹きになりたい!」という思いにとり憑かれたのである。

 20世紀最後の演奏会の終曲を飾るのはこの曲しかない。(この曲は作詞・作曲者不詳。九州系の地歌三絃曲として伝承されてきたものに、1919年(大正8年)宮城道雄が箏の手付けを行って以来、有名になったそうだ。)箏はあの福田種彦先生。宮城道雄に直に習い得意中の得意とするところである。全身で箏を弾き、全身で歌われる迫力を、先生がお元気なうちに是非にとお願いしての舞台となった。
 この武蔵野スイングホールは客席150名程度の小さい劇場で舞台を見下ろす形で客席がある。幕はなく出演者の入退場は暗転になっていても、全部丸見えとなる。演奏前に、出演者、特に三絃(三味線)の方は三絃を膝に乗せ、撥をもって構えるという一連の動作をし、最終の調弦をする。普通これらは幕の内で行い、用意万端となったら幕を開けるわけだが、これを観客の前でやらなくてはならない。出演者は緊張を強いられるが観客は見るものがあって飽きない。こんな会場であるから演奏者の想いと観客の想いが身近に感じとれる。
 『尾上の松』の解説の後に《二十世紀、そして二十一世紀へ。万感の思いをこめて演奏します。》と私がアナウンスをしていよいよ演奏が始まった。
 あちこち具合の悪いところが出てきていた種彦先生だが、舞台に座ってお箏を弾き始めるとすごい迫力で迫ってくる。それに負けじと頌輔も吹き返し、お嬢さんの福田千栄子師も三絃で迫ってくる。観客も身を乗り出して聞いている。ホール全体が一体化し、一つの宇宙を形作っているかのようであった。そして20分と言う時間があっという間に過ぎたのである。
 曲が終わった後頌輔は一人ひとりの温かい拍手が感じられ、一段と大きくなかなか鳴り止まないように感じた。奏者、聴衆が共に幸せな空間を共有でき二十世紀の締めくくりとしては満足であった。
 最後のアナウンス『《あなたの心に響くことを・・・・・》ということで、この武蔵野スイングホール、12月と定めて、今回で3回目となりました。来る21世紀も竹吹き人生で、竹を愛で、竹を通して発信をし続けたいと思っております。』を頌輔は万感の思いで聞いていたのである。

(3) ああ『尾上の松』

 あの感動の舞台から3年後の2003年、平成15年11月29日。宗家竹友社、創立百十周年記念演奏会が国立大劇場で開催された。今回は大舞台なのでやはり種彦先生にお願いしていた。
 ところが、父が入退院を繰り返し、だんだん弱ってきて身体が思うように動かなくなってしまっていた。当時小学校に勤めていた私に代わり、頌輔はその看病も引き受けた。
 そのうちに種彦先生の具合も悪くなり病院へ行くとそのまま入院手術ということになってしまった。しかしそのときにはもう手遅れですぐふさいでしまったらしい。先生は入院生活の中でもこの舞台を楽しみにしていらしたようだ。なにせ病院なので箏にさわることもできずベッドの上で「シャーンテンチン」などと口ずさんでいらしたとか。
 当日は痛み止めの注射を打ち車いすに乗って、病院からのご出演だった。さすがにいつもの力強い演奏とは言えなかったが、最後まで弾き切ったのだった。
 それから4日後、種彦先生が亡くなられたとの一報に、まさかこんなに早く…。
 あの舞台で全て燃焼させてしまったのだろうか。しかし、箏三絃一筋に70余年の先生らしいほとんど舞台の上での大往生だったのかもしれない。
 思えば頌輔と先生との出会いは、34、5年前のことだった。当時、尺八を習い始めたばかりだったが、先生の自然で、雄大かつ、温かみのある芸に魅せられ、合奏もお願いするようになっていったのである。保谷のご自宅に、合奏勉強に伺うと、いつもにこにこして出迎えて下さったが、ほとんど、お話はなさらないのだ。尺八で話しかけると、筝で話が返ってくる。と感じられる時の楽しさを、今も、懐かしく思い起こすことができる。先生の芸暦七十数年間と、頌輔との時間は、一瞬かもしれないが、楽しく合わせて頂けたことの幸せを、いまさらながら感じるのである。種彦先生、最後の最後まで『尾上の松』ありがとうございました。

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福田種彦先生最後の舞台

 父も翌年の3月桜の満開の頃、息を引き取ったのです。

(二) 1989年から1999年まで

 話は前に戻って、年号が平成となったことをきっかけとして思い切って直接宗家竹友社三世川瀬順輔先生の門をたたいた。先生は喜んで迎えて下さり、何かと相談に乗って頂いた。
 そして、1991年、平成3年11月13日念願のリサイタルを新宿は角筈区民センター・ホールで行うことになった。なにもかもが初めてで、観客が入らなかったらどうしようと心配したが、最低家族4人だけは入る。それでもやろうと腹を据えた。そんな8月に歌舞伎座で『怪談蚊喰鳥』、10月には『菊宴月白波』と先生の歌舞伎のお供をして歌舞伎のことを教えて頂き吹かせて頂いた。劇の中で尺八を吹くということは、舞台の役者のせりふなどをきっかけとして、パッと尺八の音を出さなければならないので毎回リサイタルをやっているようなものであった。そんなこんなで心配する暇もなくリサイタルの当日が来て何とか観客席も埋まり成功裡のうちに終えることができ、ほっとした。
 第2回のリサイタルは1998年、平成10年と間が空いてしまった。 その間、NHKカセット『伝統の韻』や『尺八の美学』で本曲「鶴の巣籠」「虚空鈴慕」を先生と共に収録させていただいた。歌舞伎では、「彦山権現誓助剣」「曽我集綉頬俠御所染ー御所五郎蔵」「天衣紛上野初花・河内山」「ぢいさんばあさん」「人情噺小判一両」「少将滋幹の母」「浜芝革財布」などを歌舞伎座、明治座(録音撮り)、浅草公会堂、京都・南座、国立劇場、甲府の巡業などで吹かせていただいた。華やかな歌舞伎と舞台裏を垣間見られたのも貴重な経験となった。その間に頌輔は母を亡くしたが、100ヶ日の墓参は宗家の代理として岡崎に出張教授に出かけたので欠席せざるを得なかった。そして父も亡くなり、その一周忌が明けるのを待ってリサイタルの用意にかかった。
 1998年、平成10年の正月は希望に満ちて明けるはずだった。ところが火葬場が開くのを待って弟を送ることになろうとは!
 頌輔はただただ稽古に没頭した。尺八を思いっきり吹いている時は何もかも忘れることが出来る。ストレスも尺八を思いっきり吹いて解消していた。頭に尺八の音が流れる時は心が落ち着き、物事が上手くいく。上手くいかない時は尺八の音が流れていないのだ。
 4月25日、四谷区民ホールでの『第2回 琴古流北畠頌輔尺八演奏会』も終わり、ボーッと毎日を過ごしているところに、大阪歌舞伎座に出演中の川瀬順輔先生が急病のためすぐに来てくれという電話が竹友社に入り、たまたま勤務日であった頌輔はそれこそ尺八一本のみ携えて大阪に向かったのであった。
 半月ほどで歌舞伎を終えた頌輔と私は何かせずにはいられないという気持ちになった。頌輔に出来る事といったら尺八しかない。弟の供養に毎年12月に近場の小さいホールでリサイタルをしようと考えたのである。
 その年の12月16日。武蔵野スイングホールでは第1回目、『北畠頌輔尺八の会』としては3回目のリサイタルを開催した。終曲は宮城道雄作曲『四季の柳』。来たる1999年が良き年となるよう「四季の柳」で、にぎやかにおさめたいと願っての選曲である。

(三) これから                                                             
 そして、2007年、平成19年12月7日でいつのまにか、リサイタルも9回目となっていた。
 最初の頃こそ、弟の供養という思いが強かったが、いつしか頌輔自身のためにやっているのかなと思うようになっていた。尺八の音がより良く鳴るように尺八の内径をいじったり、編曲を考えたり、二尺四寸という長尺、その逆に一尺四寸という短尺に挑戦したり勉強を続けて吹き込んでいる。そんな頌輔の姿に私はチラシやプログラムを作ったりアナウンスをしたりして支えているつもりである。ともかく今日も頌輔は尺八を吹いている。今、21世紀も竹吹き人生で、竹を愛で、竹を通して発信をし続けることができることを感謝しながら。

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頌輔のお宝 
左から一尺四寸、一尺六寸、一尺七寸、一尺八寸、一尺九寸、二尺、二尺一寸、二尺四寸管


予告
2009年、平成21年6月28日(日)  北畠頌輔尺八の会(第10回) 紀尾井小ホール

(北畠久美子)

台湾少年工から学んだ アイデンティティーの育て方、守り方

呉 春生さん(79歳)探訪記


 だまされたら、怒る。それが普通です。やられたらやり返せと教わって私は育ちました。
しかるに、だまされたのに、怒らない人が8,000人もいた話があるのはおかしいと思いませんか。
 その朝、4時からスタートしたNHKラジオ深夜便をうつらうつら聞くともなしに聞いていた私はいつの間にか目がさめ、枕にほおづえして聞き入ることになりました。ドラマチックな話でした。
 台湾の小学校をおえたばかりの優秀な少年たち8,000余名が戦争末期に日本の海軍工廠に志願してきたのはいいけれど、みごとだまされたという話なのです。

台湾少年工  
 太平洋戦争後期、労働力不足をおぎなうため、日本は統治下の台湾から優秀な少年を募集。はたらきながら勉強すれば、旧制中学などの上級学校の卒業資格を与えるという条件で、12、13才から19才の少年が採用試験を受け、計8,400人が日本へ渡った。  
 B29迎撃用の戦闘機「雷電」などを生産した高座海軍工廠(現在の神奈川県座間市、海老名市)で研修を受け、その後、同工廠や横須賀、佐世保などの海軍工廠、各地の航空機工場で生産に従事した。空襲などで少なくとも約60人がなくなったとされる。(『西日本新聞』)



発端

 語っていたのは少年工たちが暮らしていた寮で舎監をされていた方のご子息でした。彼によれば毎朝、少年工たちが隊列を組んで工場に出勤するときに、声高らかに歌をうたいながら歩んだそうですが、その声がまるで波が押し寄せ、ひいてはまた押し寄せるごとくに聞こえる家で少年時代をすごしたということです。当時の少年がいま74才になった石川公弘さんでした。
 一度聞いただけでは聞き流していたかもしれません。しかし私は偶然にも半年後に再放送をもまたしても聞きました。その時に私は疑問を強く意識したのです。「なぜだ!賢い少年たちではないか。だまされて連れてこられて働かされた日本をうらまないなんてことがあるものか。おかしい。調べてみたい。」
 今回の小金井講座でルポの課題を示されたのを機に、具体的な行動を起こすことにしました。行動開始の根底にはもともと私自身の、①生いたち ②子育て そして③今の仕事がからんでいることも自覚しました。多少カタイ表現になりますが、アイデンティティーの育て方、伸ばし方を出来る限り追及していきたいのです。それはこういうことです。

・小6のとき児童会長に選ばれた私は国立大学の附属中学進学を望んだものの叶えられず、村の公立中学校にやらされました。家が貧しかったからです。
・四十余年もの昔ですが、やはり毎朝、社員たちが歌を歌いながら行進する工場が近くにありました。戦前には日本一だったのに、現在は倒産してしまった某企業の工場でした。実は私も石川さんのように寮の寝床でそれを聞いていたのでした。
・中学校卒の優秀な少年たちを集めて半工半読の生活をさせる養成学校をもつ企業がわが故郷にもありました。その進路を選択させられた子どもたちの年長者たちと私は幼い頃よく遊びました。彼らはその企業内養成学校でどんな学業と仕事の両立を果たしえていたのでしょうか。当時はそれを確かめようとしたこともなかったのですが、今になると、気になります。
・アイデンティティーというものが確立できる時期は個人差が大きいと思います。わが家では長男を遠隔地にある全寮制の私立校に入学させてみごと失敗しました。本来、小学校中学年から高学年にかけて芽生える「自分らしさ」の基礎基盤を十分に育てられぬままに12歳で寮に送り出した結果、偏差値信仰の価値観しか持てない子に育ってしまったからです。がんぜない12才の台湾少年工たちは日本に上陸して自分達に対する処遇の真実がわかり、悔し涙にくれたことでしょう。
 偏差値信仰と緊急戦時体制下の学業学歴取得取り下げとを同列において論ずることはできませんが、一体自分は何のために今日一日、今月1カ月を生きているのか、本来の意味を追求したくとも出来にくいという点においては共通点があります。8000もの少年工が途方にくれたとき、一体どうやって切り抜けえたものかと他人事には思えません。
・私が現在取組んでいる「体験・表現教室」は子どもたちにさまざまな体験学習と表現学習のむすびつけを通して、自己表現力を養成することを目指している教室です。今年が9年目です。とても手間のかかる仕事で、そうやすやすと表現力が向上するものではありません。しかしながら、豊かな時代になればなるほど自ら何かをやりだす、体験しようと試みることが自己表現力の養成につながります。体験と表現を繰り返し、達成感、充実感を積み重ねたところに自信やアイデンティティーの基盤が定着化していくものです。挫折感と絶望感の底で少年工たちのアイデンティティーは一体どうやって維持されたものか、これを考えることは私の教室の子どもたちの為にもなることではないかと直感しました。

追跡のスタート 6月7日の小金井講座の翌日

① 月刊『文藝春秋』バックナンバーの追跡収集(2003年8月号)阿川弘之さんのエッセー「心の祖国」、月刊『正論』(2008年5月号・7月号)岡村青さんのレポート「台湾少年工の至誠純真を思う」ほかインターネットに載っている台湾少年工の記事を十数編を読みました。
② 実地検証の初日。7月13日(日)。大和市立図書館に出向きました。相談員が大層親切でした。台湾少年工の関連書物一式を数時間かけて確かめることができました。大和市議会議長職を務められたという石川さんの住所もつきとめ、早速、「台湾少年工で現在、関東近県に在住の方をご紹介願いたい」旨の依頼状を同日付にて発信しました。
③ 12日後の7月25日(金)。石川さんからご丁寧なご返事が到着。大層うれしく、これで第一歩が踏み出せると確信しました。紹介されたのは日本人に帰化された「呉春生さん 大和市在住」でした。
④ 夏は私自身の業務最繁忙期につき、呉さん宅を訪問できたのは8月11日(月)午後になりました。

呉 春生さんの話

 顔つやもよく、論理的に話し、闊達な方でした。しかしながら呉さんはお気の毒に酸素ボンベの携帯を医師から指示されている身でした。また脳梗塞の後遺症で、ものが二つに見えてしまうため、片方の目はいつも眼帯をしているということでした。以下、呉さんの話を再現してみます。

「子どものころのことから・・・・
 台湾高雄市の東、屏東市からさらに南に16kmはなれた村で1929年に生まれました。9人兄弟の長男です。公学校(台湾人の子どもの通う小学校が公学校。内地人の子どもは小学校に通う。)では体育以外はすべて「甲」、1年から高等科2年までの8年間級長をつとめました。(優等生でした)6年生のときには5年生の弟、3年生の妹、1年生の弟の4人とも級長だったということで評判の家でした。
 学校ではすべて日本語での授業です。担任の日本人教師を神様と同じと思っていた上に、その先生から「家でも必要なとき以外は台湾語(福建語)は使うな」と指導されましたから親に嫌がられても日本語を覚えました。1才下の弟は私が高等科2年を卒業して少年工に採用される前に、6年生を終えて先に少年工として日本に渡っていましたから、少年工としては弟が先輩にあたります。
 父親は技術者で町に働きに出かけ、母親は畑仕事に忙しい。弟妹たちの子守り役で私は学校から帰宅しても遊んでいる時間がない子どもでした。だからとびつくように応募した台湾少年工の募集でした。
 少年工の試験  1クラス60数名いた中で6人が受験し、3人が合格しました。
 合格  第6期生として。最後は7期生。
 乗船  敵の襲撃を逃れるために日本への直進ルートをとらないで、台湾から中国沿岸を経て12日間かかって昭和19年2月2日大阪に上陸。船中ではマラリアに感染。
 上陸  たちまち単なる工員の仕事。ただし、昭和18年に入った人の中から20数名は工員養成所に入れました。かれらは学業も受けさせてもらえました。私の配属先は群馬県太田市の中島飛行機で、そこでは仕上げ工という仕事を与えられました。

呉 春生流の対応策(処世術)
 私はもともと勉強がしたいのですから、決断実行は早かったのです。早速、当時『早稲田講義録』とならんで人気の井上講義録(神田)を取り寄せました。寮は消灯時間が決まっていますから、勉強する場所は寮の押入れの中です。懐中電灯のあかりで勉強しました。講義録の内容は頭の中にスイスイ入っていきました。一番困ったことは懐中電灯の電池がすぐ切れてしまうことです。休みの日には電池の確保に苦心しました。当時、モノがない時期になっていたからです。 
 食事は、コメ‥かぞえるほどしかないごはん
    おかず‥豆だけか、豆かす でした。
 同じ台湾からでもいい家庭に育った子はけっこう多かったし、こういう家の子は私とはちがうと思いましたが、自分は耐えられると思っていました。このような日々に耐えぬけたのが自分の誇りです。そして、仕事の技術面でも各専門に適性検査でふり分けられて、細分化して、集中させてやらせていましたので、短い期間でその分野での専門家になりました。仲間には1年間で精巧な時計をばらして直せるようになったものもいます。

まわりを見てわかった時代
 今、どういう環境なのか、自分のおかれた境遇から、自分は何をすればよいのか──非常に凝縮された、かつ実に貴重な、自分を育ててくれた期間であったと思います。文句を言いたくなるどころか、感謝しています。日本中が大変なときで、自分達だけが差別待遇を受け入れさせられたわけではないのですから。ならば、耐え抜くことだと。そして、言われた仕事はきちんとやりぬくべきです。
 日本の敗戦はうすうす知っていました。私は帰国船には乗らないで日本に残留することを決意しました。各地を見聞してあるいたりもしました。そして家庭教師のバイトをしながら2つの大学に進み、卒業しました。東京外国語大学と中央大学です。私が英語力を身につけた、その秘訣とは「絶対に負けない。あきらめない。この人に出来るものならば、自分もやればできるはず」というものです。中央大学法学部を卒業後は、台湾出身のため就職がなかなかできなかったけれども、米軍への就職、ただし、経理職が決まりました。(※東洋のストラスバリウスと賞賛されたバイオリンの製造者陳昌げんさんも全く同じですね。明治大学を卒業しても陳さんは韓国人という理由で彼を受け入れてくれる企業はなかったのです。しかし、独力でバイオリンの製作に取り組み、艱難辛苦の末、成功したという話があります。)勤務先の米軍基地で法律顧問に転籍したきっかけは米軍内のあらそいごとを処理するときに英語と法律の知識のある人材として見込まれたからです。

帰化して平穏な暮らし。
日本高座会会長役をしています。

 逆に台湾に帰った弟は大家族や政治不安定の中でさんざんな苦労をしました。定年後の私は思い立って70歳にして中山大学へ語学留学し、今では日本語、英語、北京語、福建語の4つの言葉が話せます。言葉、語学の力が私をこんにちたらしめてくれましたから、言葉は大切です。辞書は必携です」。以上、呉 春生さんの談話。

(まとめ)
何があっても生き残った雑草のようなもの
─①たくましく、②基盤が強固で、
  ③精神的な支柱になるもの 
  それこそがアイデンティティー


 藤永保『現代の発達心理学』有斐閣の中に次のような言葉をみつけました。
 「発達初期に獲得された自尊心は、その後のあらゆるストレスを乗りこえていく自我を支え、強めていく」。なるほど。これは台湾少年工の呉春生さんにもあてはまるのではないかと思いました。
 呉春生さんの話をうかがって合点したことの一つは、彼が自分のプライドを支えた根底には、自らの能力を信じる力、自尊心が幼少期に確実に育っていたということです。彼のアイデンティティーの育ち方をたどってみて、わかったことは、自己同一性(アイデンティティー)とは温室栽培風の順風満帆の環境で育つものではないということです。日本の海軍工廠を恨まない理由もそこにあったのです。私の当初の疑問がここにいたって、ようやく解けたような気がします。
 打たれても蹴られてもまた立ち直って、根をはり、茎を太らせ、葉を茂らせる雑草のごときもの、それがアイデンティティーというものなのですね。子どもとか少年、青年にたとえるならば、幾たびの失敗、葛藤、挫折や飢餓をともなう体験を経て、それも存分の歳月をかけて、なおかつ集団の中で
という条件のもとに繰り返された体験─それに裏打ちされた確信、自信があって、初めてアイデンティティーの種が発芽するということではないでしょうか。

 さもわかったように書いているこの探訪記ですが、少年工8,000余名の中のたった一人に取材しただけです。これが全体の総意とは言えないでしょう。けれども、今の私の調査段階では台湾少年工が逆境を跳ね返して生きる術を勝ち取っていった関連資料を随分読みました。そのプロセスを経て大和市立図書館に出向いた結果、たどりついたのが石川さん、呉さんだったわけです。まだまだ興味関心の入口に立ったレベルと思っていますが、本当にわくわくするような思いに満ちた約2カ月半でした。

 苦労、苦痛、難渋、壁、障害、不運‥‥難問が多ければ多いほどに人はおのれのアイデンティティーを強固にきづく機会を与えられるものなのですね。もちろん、いともカンタンに崩壊脱落する人もいて当然だし、表面は平静をとりつくろって内心は意欲喪失状態になる人もいるのが人間社会のおもしろおかしいところです。最後に本文の結論として、台湾少年工の皆さんが戦後60年を経て、「日本を恨んでいるヒマはないし、逆にむしろ日本に親しみを感じている」というのは、少年時代に台湾においてつちかってきた自尊心、アイデンティティーのたまもので、それが高座海軍工廠に来て「ためされた。そして本物であることが証明された」─これが私の結論です。勉強をさせず、学歴取得を反故にした罪は日本人の一人として申し訳ありませんでしたとお詫びしなければと思います。
 これから先、私の教室の子どもたち、日本中の子どもたちの一人でも多くに台湾少年工の物語を伝えていきます。                                      
                                               (完)

(間宮功)

アーティストとの会話~二つのラジオ番組からの断片~

二つのラジオ番組

 今年の2月頃からネットラジオを制作している。「ぺくラジオ」という番組と「イマジナリートーク」という番組だ。
 「ぺくラジオ」は自分にとって気になる人、ジャンルを問わず面白いと思った人をゲストに呼んでお話をうかがったり、日頃思った事などをつらつら話すだけという場合もある。
 僕自身、音楽をやっているのでミュージシャンをゲストに誘う場合が多い。
 「イマジナリートーク」は吉祥寺にある「ギャラリー惺」を中心に、個展をしている作家に作品やその制作についてお話をうかがうという番組だ。
 ギャラリー惺は現代美術のアーティストを扱う。一般的に「よくわからない」とか「敷居が高い」などといわれることの多いジャンルである。
 どちらの番組にも共通しているのは「僕自身にとっての教育番組」ということ。
 元々テレビやラジオでのインタビュー番組は好きである。文化人といわれる人々の話を聞くのは勉強になるし、自分のやっている事に直接関係ない人の話でも、何かの瞬間に繋がることがある。それが面白いのである。
 両番組制作で僕が決めたルールがある。
 一番組約30分。オープニングの曲で始まり、約15分のところで「ジングル」という番組の節目を演出する短い曲を入れて、エンディングの曲を30秒程入れる。この短い曲はコンピュータのソフト上にあらかじめ配置させてあり、それを意識しながら話を進める。もちろん、配置した部分に会話が食い込んでしまうこともあるので、それは言葉優先で、多少の編集作業をしなければならないが、極力編集はしない。
 そして、台本を用意しない。アーティストによっては次回のライブや展覧会など告知したい場合があるからそういったことは収録前に聞いておくが、それ以外は決めない。
 「ぺくラジオ」の場合、都内にあるファミリーレストランなどでの収録が多く、店の雑音まで録音してしまうことになる。しかし、収録のためにわざわざスタジオを借りたりするのは手間がかかるし、その手間を相手も考えて話すわけで、その段階で緊張してしまう場合がある。多少聴き取りにくい部分があったとしても、録音しているという緊張感を無くしたいと思うので、いまの方法に落ち着いている。
 「イマジナリートーク」はギャラリー惺で収録している以外はほとんど「ぺくラジオ」と同じルール。半地下にあるギャラリーは吉祥寺通りに面していて、車の通る音が多少収録されてしまうが、実際の作品を眺め、「僕が思ったこと」が質問になって進んでいくことになるのでギャラリーで収録することが大切なのだ。
 音を収録するのだからマイクも必要と思い、いくつか手に入れたマイクを試したけれども、調整するのに時間がかかることと、先に述べた緊張してしまうことを考え、コンピュータ本体に内蔵されているマイクで収録している。
 いつもと違った場所、見慣れないマイクなど使わなくても「簡単に録音できるのだな」と思ってもらうのが丁度良いと思っている。
 先に述べたように、僕もミュージシャンの端くれであるし、絵描きの端くれでもある。制作の基本となる部分はわかっているつもりだ。だから「どんな絵の具を使っていますか?」とか「あなたの芸術性はどんなものですか?」のような質問は極力しない。聴いている方は「何故そこを聞かないのか?」と思われるかもしれないが、直接的なことを聞けば聞く程、作品を鑑賞する意味がなくなってきてしまうように思う。しかし、アーティストが表現したいことの触りの部分を語ってもらうことで、興味を持ってもらえれば、作品との出会いもより楽しいものになるのではないかと思っている。
 
イメージを委ねる

 先に述べたように「ぺくラジオ」はミュージシャンのゲストが多い。ではどんな音楽を演奏している人達か。一言で言うと「アンダーグラウンドな人達」だ。
 例えば「即興演奏」というジャンルの人が多い。実は僕自身もその演奏家なのだが、「即興演奏」はロックやポップスのようなわかりやすいものではない。演奏者はその場その場で旋律を作り、その時の雰囲気のようなものを作り上げていく。もともと聴いたことのない曲だし、ジャンル分けしにくい音楽なので、結果「わからない」というふうに思われることが多い。ただ、そんな「わかりにくい」ものでも、観客に何かをイメージさせる時がある。
 「即興は会話であるというのは最低限必要なことです。自分との会話。お客さんとの会話。それは、水族館で魚を鑑賞するように、ただ観てもらえば良いと思っています。そうすることに規制はないわけですから、気取らずに楽しんでもらえれば良いのです。それは、観客冥利につきるということだと思います。」
 ベーシストでシンセサイザー奏者の小池実さんは去年の夏、香川県で即興演奏のライブをおこなった。
 その演奏終了後、小池さんの前に現れた観客の方が「アフリカの草原のようなものが浮かんできました。」と言ったそうだ。そういったイメージを楽しむことは「観客冥利につきること」なのだ。
 小池さんはアフリカの草原をイメージして演奏していたわけではない。けれども、観客はそう思ったのだ。小池さんは観客のイメージしたものを聞いて素直に喜んだと語った。

 「イマジナリートーク」のゲスト出演していただいたキタマタ・ヨシヒロさんはこんなことを言っていた。
 「例えば僕がうどんを食べたいとかカレーが食べたいとか思って作品を撮ったとしましょう。それを観たお客さんが、これは讃岐っぽいなとかインドカレーだなとか、自分の思ったうどん、カレーに感じてもらっていいんです。」と。仮にお客さんがキタマタさんの思ってもみないものを感じて「こう感じました」と言われた場合でも、それはその人の「リアル」であると彼は受け止めるのだ。アーティストが全てを提示して「これはこうだ」と言ってしまうことは、それ以上の広がりを止めてしまうことになってしまう。お客さんは作品と対峙し、想像力を働かせて目の前の作品の中に入り込む。そうして感じた結果がアーティストの望む答えのようなものかもしれない。
 ちなみに、キタマタさんの作品は決してうどんやカレーを撮影したものではない。武蔵野にある森の風景をピントを甘くして撮影したものだ。彼は眼鏡をかけているけれどもその眼鏡を外した時に見える風景はピントの甘い世界なのだ。彼の視力を作品に反映させているということ。
 小池さんは音楽、キタマタさんは現代美術、具体的に出力されたものは音と写真だが、共通している部分がある。それは相手に「イメージを委ねる」ということだ。

 フランス人の作家ステファン・ルルさんは「鑑賞者がコンセプトを知りたいと思うことは、安心したいと思っているからです。作家には強いコンセプトはあるけれども、それを言葉でわかってもらうのではなく、自分が作品を観て感じた時のその感覚を大切にしてもらいたいのです。」と語っていた。
 田中マサシさんという作家の作品は、何処にでもある淡々とした風景を撮影している。例えば家から駅までの間の、ただただ過ぎて行く風景を写真に収める。写真のタイトルは番号になっている。機械的な数字がタイトルであって何処で撮ったものなのかはその周辺に住んでいる人かアーティスト本人でしかわからない。
 「普段から見慣れた景色を例えば映画のセットみたいに作ったとすると、それってもの凄く大変なことでしょう。僕らはそういう世界に住んでいるんです。だから、その風景をただの物としてしか感じられないのは勿体無い気がするんです。」と彼は言った。
 見慣れた風景をもう一度改めて観てみる。そうすると極わずかなことでも発見がある。ラジオ収録中、不思議なことに、その何処にでもある風景は、以前に自分が住んでいた街の風景ではないかという「記憶の風景」と重なる部分があった。これは個人差があるかもしれないが、彼の作品を鑑賞する楽しさでもある。旅に出て、見た事のない街にぽつんと立つと何となく「どこそこみたいだな」と思う時がある。そんな感覚になったのだ。田中さんにそれを話すと「そういった楽しみ方もありますね。」と語った。
 これも鑑賞者側の「イメージ」に委ねられたものであると思う。
 僕は2つのラジオ番組の中で10人のアーティストから話をうかがったけれども、10人ともに「自分のイメージを強要したくない、自由に感じてもらいたい」と語っていた。

 パーカッショニストのカワイ・ヒトシさんはVajuWaju(ウ゛ァジュワジュ)と言うバンドで活躍している。インストルメンタルのバンドであるVajuWajuはジャズ的な技法を軸に即興的要素を取り入れたカラフルなバンドである。このバンドで彼が目指すところは「クスッと笑えるようなユーモアのあるバンド」だ。実際のライブを観る限り緊張感のある演奏でそこにはユーモアよりもシリアスさの方を強く感じるが、シリアスの中に即興的に挿入される場面展開が彼の言う「ユーモア」なのだ。そして、音楽という「会話」を「ユーモア」に絡めて、どのように観客に伝えるかを考えているようだ。
 「ライブは会話である」とカワイさんはいう。これは先に登場したベーシストの小池さんもいっていたが、ミュージシャンも観客もその「会話」の中に居る。
 「バンドのメンバーはあまり会話が上手いとは言えません。(笑)ですが、理屈でなく感じる部分で面白いものを作りたいと思っているんです。」
 カワイさんは、故いかりや長介氏がリーダーをつとめたドリフターズのファンである。幼い頃ドリフターズの番組を見て楽しんだことは、現在の音楽活動に少なからず影響があるという。
 「大爆笑でなくても、クスッと笑える部分が好き」そういうところがドリフターズのコントなどから影響を受けたもののようだ。
 「例えばアナウンサーは正確に情報を伝えるために訓練をします。話すスピードや滑舌など訓練する。ミュージシャンも同じように訓練しますが、訓練したことから出てくる「正確な音楽」の前に「何となくわかる」という感覚的なものがあると思うんです。」
 カワイさんの話す感覚的なことは「お葬式のシリアスさに耐えかねて笑ってしまうことがある」という少し変わった視点である。例えばお葬式の最中、足がしびれて立てない場合があるけれども、お焼香の時、転んでしまう人を見て、笑ってはいけないのは重々承知していたとしてもそれまでの緊張が何処かへ消えてしまう瞬間がある。これは「恥ずかしい」ということだが、ある意味「ユーモア」でもある。ピンと張りつめたものが一瞬のうちに途切れてしまう瞬間。
 いかりや長介さんがお母さん役で子供に扮したメンバーに激怒する場面があった。怯えた子供達の中で加藤茶さんが「ヘッブシュン!」とクシャミをしてその場を笑いへ流していく。
 一定の空気感の中に異物が入り込んでしまった時のインパクトをバンドで作り出すこと。
少々極端と言うか不思議な話だけれども、感覚として共感していただける部分もあると思う。
 これはラジオ収録後に聞いた話だが、カワイさんはファシリテーター(促進者)としての活動もしている。まったく楽器をいじったことのない人々に「こうしてみると良いですよ」と促す人。これは「委ねる」ことを楽しんでいるカワイさんならではの役目のような気がした。

新たな表現を求めて

 パフォーマンスとは、アーティスト自体の行動が作品のテーマとなる表現方法だが、理解されにくい表現方法の一つだと思う。
 「別に、わかりにくくしているつもりはないです。最初は陶芸作品を作ってましたが、自分の新しい表現を探していて、それは現代美術の中に見いだせるのではないかと思い、そういう活動に移っていったんです。」
 パフォーマーの寺田織絵さんは「おにぎりパフォーマンス」と言うイベントを企画・開催した。船橋にあるアンデルセン公園内で、自分で作ったおにぎりを配る。配られた人達はそのおにぎりを食べる。その食べている行為は写真や映像に記録され、アンデルセン公園内にある「こども美術館」の一室で公開される。この一室でもおにぎりは配られる。そして記録映像を鑑賞している人々は、おにぎりをほおばりながらおにぎりをほおばっている人達を鑑賞する。過去におにぎりを食べた人と現在食べている人が寺田さんのおにぎりを食べることで共通の体験をすることになる。
 彼女が「おにぎりパフォーマンス」に行き着くまでには試行錯誤があった。
 作家としてのスタートを陶芸で始めた彼女は「陶芸の世界の中の食」という部分に注目する。
 陶芸作品として食べられないケーキを作ったこともあった。この作品はレシピも付いている。
 「粘土になる前の土とか砂とか、自然から採れる素材という観点を意識した時に、食べ物の材料のように感じたんです。」
 食べものを食べる事と作る事両方好きだと言うのはもちろんだけれども「美味しそう」と思う部分を別な視点から感じている。
 「焼き上がった陶芸作品の艶などの質感を見た時に、まるで食べ物のように思うことがあります。」
 そう言われて漬け物などに使う壷を想像してみると焦げ茶で黒い釉薬が垂れていて和菓子のように見えなくもない。
 彼女がイギリスの大学に留学していた頃、そこで知り合った人々と制作したビデオ作品では自ら出演し、魚を淡々と食べていた。それはイギリスの人々から見た日本人との食のギャップみたいなものを表現したかったらしい。そういう活動をするうちに、もっと直接的なコミュニケーションとして、日本を代表する食べ物「おにぎり」が登場する。作家が作ったものを体内に取り込むという直接さが彼女の考える新しい表現なのだと思う。
 「誰でも必要とする食べ物の持つ力を自分のパフォーマンス・イベントに取り入れたかったんです。おにぎりを食べつつ映像を観て、自分が参加していることを感じてもらいたいと思っていました。」寺田さんはそう語った。
 結びつかなさそうなものどうしを、あえて結びつけてしまうこと。それは少々奇妙なことのように感じられるかもしれない。いびつで、不安定なもののように感じるだろう。そもそも有り得ないものなのだから、それを不思議に思うことは当然なのだ。しかし繋ぎ合わせ安いものを結びつけたところで、そこに面白味はないわけで、違和感のあるものを、いびつさや不自然さを感じさせつつも作品として成立させることをアーティストは考えている。

 パーカッショニストの山北健一さんはジャンルを問わず、多方面のミュージシャンと音楽を作り上げている。
 彼がパーカッションを始めた切っ掛けは「お祭り好き」ということらしい。
 「街に太鼓の音が聴こえてくると、外に出てました。太鼓と鐘と踊りがセットになっている。地車だったんですけど、街を練り歩いて来た地車が近づいてくると居ても立ってもいられなくなってしまう。そんな少年時代でしたね。何故パーカッションかと原因を探ると、そういうことなのかと思います。」
 そんな彼もCDアルバム制作やライブなどで、挑戦を繰り返している。
 例えば、録音した曲をライブ中に流し、それに合わせて同じフレーズを叩く。「自分で作った曲だからそんなことは出来て当たり前だ」と思うかもしれないけれども、これは簡単に出来ることではない。一種、職人的な技術が必要なのだ。
 メトロノームを持っている方は挑戦していただきたい。一定のリズムを流しながら、それに合わせて手を叩くというシンプルなことだけれども、録音してみるとズレていることに気がつくと思う。ズレているかどうかに気づくのにも多少時間はかかるかもしれないけれども。
 流れている時間(リズム)の決められたポイントに正確に音を置いていく作業を彼はやってのけてゆく。
 「一定のリズムで演奏するのは心地良いです。機械と合わせる時はメロディーやあるリズムのシーンによっては、正確なテンポが下がったように感じる時があります。生の演奏に機械があってこないと思えてしまう。しかし、録音したものを後で聴いてみると、これで良かったんだと思います。」
 今までの彼の作品はパーカッションだけで作り上げた曲だった。打楽器だけと考えるとメロディーのない退屈なものに思われるかもしれないがそんなことは決してない。ジャンベというアフリカの太鼓を叩いて、観客がどのくらいでその音に飽きてしまうかを彼は長年の演奏経験から学んでいる。コンガ、ボンゴという一般的なラテン系のパーカッションはもちろん、時には大・中・小の木魚を叩いたり、バラフォンという木琴のような楽器を使ってのメロディー的フレーズなども折り込みながら多彩なパーカッション演奏を聞かせてくれる。
 そんな彼が次に発表する作品では積極的に他の楽器、例えばエレキベースやコンピュータなども使い「より聞きやすい一般的な音楽」に挑戦している。演奏するのは山北さんのみ。
 「Blue Momentというアルバムタイトルは、夕日が沈んだ後のほんの一瞬しかない時間をいいます。曲によっては絵や色がイメージできるような作品を目指しました。今回はいろんな楽器で曲を構成しています。今までのパーカッションの演奏をベースに、そういったものでデコレーションしていったアルバムです。」
 数年間続けてきたパーカッションのみの楽曲作りを自身でうち壊すこと、それは今まで山北ファンであったパーカッション好きにとって、違和感を隠せないものと思う。しかし、それでも彼は自分の表現したいことに素直でありたいと語っていた。ここで出てくる素直な表現と言うのは「誰もが分かりやすく入り込みやすい音楽」のこと。そして、自分の感覚的にとらえた風景、ツアーで行った山や海のような自然の持つ人を飲み込んでしまいそうな空間などを表現するといったことなのだ。それは、テレビなどで放送している音楽番組では扱われにくい音楽かもしれない。だが、自分なりのポップスを作り出そうとしている。
 ラジオ収録後、「CD屋のヤ行の棚で、ポップスの職人山下達郎の隣に僕の作品があるって面白いでしょう?」と彼は笑っていた。

表現とコミュニケーション

 榎本謙一郎さんの作品制作をうかがった時に面白いと思ったのは作品制作の源の部分。
 彼は平面作品を描く人だけれども、制作には写真を使うことがしばしばある。
 例えば街を歩いていて、奇麗だなと思う風景に出会ったとする。それを携帯電話のカメラに撮る。それを持ち帰り、制作に着手するのだが、写真に移った全てを単純に模写や、デフォルメするわけではない。彼が描きたいのは「奇麗だな」と思った時の「感情」なのだ。それが何色なのか?どんな形をしているのか?それをじっくりと考えて筆を動かしていく。これが彼の表現したいものなのだそうだ。前出したキタマタさんの「感じて欲しいこと」もそうだが、決して作品に描かれたそのものではない。榎本さんも同じである。
 「決して何かを崩そうと思って描こうとは思っていないんです。自分の中に現れたリアルに対して忠実に作品を描いているんです。」
 街を歩いていて「あの頃嗅いだことのある匂いだ」と思うことがある。それはダイレクトに記憶にとどき「あの頃」を思い出すことがあった。不明瞭な記憶だが、それを感じたことはリアルである。榎本さんの作品制作にそれを感じた。
 「匂いの記憶は僕もわかります。それ以外では思い出したこともなかったことが、匂いを切っ掛けに思い出すことってありますね。」
 不思議なことに榎本さん、山北さん、キタマタさんとの会話の中で出て来た言葉や感覚には「狭間」という言葉が思いおこされた。この「狭間」というのは、山北さんのアルバム「Blue Moment」や、榎本さんの形として捉えられないが、何かが存在しているような感覚のように思う。
 考えてみると、毎日おこる出来事に日の出と日没がある。毎日のことではないのだけれど、改めて日が出る様子や沈む姿を興味深く見つめていると驚いたり、感動したりすることがある。
 彼らが表現したいことはそういうことなのではないか。ドキュメンタリー番組で小動物や植物をテーマにしたもので、蟻の生活とか今にも干上がりそうな池の中で数々の魚、虫などが蠢いているものとか、無機質な物体だけれども気づかない間に劣化している物のように「気にも止めない小さい変化」に注目するということのように思う。
 榎本さんの個展DMのコメントは次のようなものだった。

 「現実の風景や物事であるにも拘わらず、まるで非現実であるかのように思える時がある。その瞬間、僕の五感はその他の外界からの働きかけに鈍くなり、頭がすこし痺れている。この、言葉で説明のつかない現象をきっと感動と言うのだ。非現実と現実、言い換えて夢とうつつ。それが僕の気になる所であり、作品に現れる世界なのだと思う。」

 今井尋也さんは鼓奏者である。能の世界で活動している人かと思うとそうではない。もちろん、初めは古典芸能の世界からのスタートだった。
 「2、3年くらいで古典音楽以外の活動が増えました。一時、能の活動を封印していた頃がありましたが、現代音楽の作曲家などからお誘いをいただくようになりました。実際、能を中心に活動している人を誘いにくい部分があると思いますから、一度、そこからから離れた僕に白羽の矢が立ったということだと思います。」
 多方面のミュージシャンと共演する彼だが、鼓の演奏表現への挑戦がうかがえる。
 「例えば、演奏法の中に3つの要素があって、一つは鼓を鳴らした時。二つめは、かけ声で、「よう、ポン」「ほう、ポン」というように、叩く前にかけ声をかけます。これは他の打楽器演奏とは根本的に違うものです声も演奏形態の一つと捉える。三つめは、息を吸うこと。かけ声を発生させるためには大きく息を吸わなくてはいけない。」この「息を吸い込むこと」は、能の世界でいう「こみ」というものだ。
 「こみをとる、かけ声を出す、鼓を鳴らす。この三つを一つの動作として演奏しています。
 こみは目に見えないので観客の方にはわかりにくいものだと思いますが、鼓の演奏家が演奏中に一番気にしているのは、こみをとることなんです。」
 彼はセッションの中で、古典芸能の手法を積極的に取り入れ、相手とのコミュニケーションをはかろうとしている。
 「他のジャンルの演奏家とセッションするということも、その場にこみが生まれる可能性が見いだせるのではないかと積極的に参加しています。そこで、自分のやっていることが通用するのか興味のあるところなんです。」
 ジャンルを問わず音楽を感じる時によく使う言葉で「ノリ」という言葉がある。極端ではあるが「ノリ」と「こみ」は似ているもののように感じた。
 鑑賞する側からみれば音のない部分は「素通りするだけ」と思いがちだが、この空拍を感じることで初めて舞台は成立する。空拍は必ず存在しているのだ。
 前出の山北さん、カワイさん、小池さんも同じようにこの「何もない空拍」を感じながら次の音を用意していく。
 音楽は時間的芸術であるといわれるからこの「空拍」を感じやすい。しかし、美術の中でもこの「空拍」は存在しているのかもしれない。手前に描かれた色や物と背景にある色や物。重なり合うものや隣り合うものがある限り「空拍」は存在しているように思う。
 学生の頃、「平面構成」というものをやらされた覚えがある。幾何学模様を描き、それに色を乗せてゆく。この「平面構成」は絵の中の構図を作る勉強として記憶しているけれども、講師の言葉の中に「リズム」という言葉を使っていたことを思い出した。絵の中のリズム。具体的に解釈するのは難しいけれども、感覚的には分かるように思う。
 今井さんは舞台演出家としての顔も持っている。
 「参加型のイベントを演出した時のことですが、入場料を支払ってもらう時に、架空のお金を渡しました。そのお金はパフォーマンスに参加することで稼げるというルールを作り、ある程度の金額になったところで初めてステージ上のパフォーマンスを観ることができる。そういったイベントを企画しつつ、自分の中に本当の参加型イベントとは何かという疑問が浮かんできました。突詰めて考えてみた結果、普通に観客として観てもらうということが本当の参加型なんだと思うようになりました。ステージでおこなわれていることの意味を知ってもらいながら観てもらうこと。普通におこなっていたことに意味を感じています。」

 ノイズミュージックというジャンルがある。音楽とは程遠いように思われる音を組合わせて作られる音楽。音の鳴る物ならば何でも鳴らして音楽という形にしていこうとするジャンルで、楽典などに記されている理論を超えた表現をする。工事現場で使うような道具が使われることもあるし、街の音そのものを音楽として捉える場合もある。
 このノイズミュージックから新たな世界を見いだそうとしているミュージシャンがダークロウさんだ。
 一般的に馴染みの薄いノイズミュージックだが、さまざまなジャンルと融合して新しい形を作り出しているそうだ。
 「ノイズミュージックといってもいろいろで、違うジャンルとの融合を考えているように思います。そういう意味で面白い方向にあるのではないかと思っています。自分が新しいもの好きということもありますが、例えばロックやポップスも新しい聴かせ方を見つけなくていけないのと同じで、ノイズミュージックもそうあると思います。」
 彼の演奏スタイルは時代錯誤かもしれない。コンピュータで音楽を作ることが全盛の今、彼はコンピュータを使わず、数十年前に発売されたシンセサイザーを今も使っているし、機材的に目新しいものは使っていない。けれども、彼のファンはそれを好んでいる。
 あるライブ終了後、ダークロウさんのファンがこう言ったそうだ。「コンピュータは使ってませんよね?」と。
 過去、ロックは破壊だと言われ、そこから生まれた音がノイズになったように、新たな形を目指して活動している。
 彼の演奏は機械的な音を使っているが肉感的である。これは今井さんの話にも出て来た「空拍」を上手く使っているところに理由があると思う。バネのように引っ張ったものが元に戻ろうとする物理的な動きを彼の演奏から感じるのである。それは古くから使われている楽器の演奏となんら変わりない。ヴァイオリンやチェロやギターと同じである。
 僕自身が持つノイズミュージックの印象は一言で「暴力的怖さ」である。無機質な音、分かりにくい音、耳が痛くなる程大きな音。けれども、ダークロウさんの音楽には「スリル」はあっても「暴力」はあまり感じられない。良い意味での「緊張」があると思う。
 実際、今の彼には本当の意味でのノイズミュージックをやっている感覚は無いそうだ。
 では、彼にとっての表現は何処へ注目しているのか。
 「同じジャンルの中でも別な表現をするもので、現代音楽からの流れがあったり、単純に音の面白さを追求している場合もありますが、自分のやっている音楽に関していえば、リズムを中心に考えています。観客が安定した転回を感じ始めたところでわざと、リズムを崩して驚いた観客の顔を見たいです。これは遊び心として。」
 これは彼の観客とのコミュニケーションなのだ。
 実際は受け入れられにくい音楽だが、観客に受け入れてもらいたいと思って演奏しているのにかわりはない。でなければ音楽をやる意味が無くなってしまう。
 「へヴィーメタルは嫌いですという人がいるけれども、聴いていないのにそういい切ってしまう場合が多々あります。見た目だけの判断で決めてはいけないと思いますし、ノイズミュージックがマニア的音楽ならば、逆に、ロックやポップスを聴いている人達にもマニアが多いとも思うし。先入観というものも変わって行くべきものだと思います。」
 アーティストと観客の垣根のない立場を作っていくことが彼の活動の源になっているように思えた。

 ステファン・ルルさんはフランスのスクワットで活動していたアーティストだ。
 スクワットは、さまざまなアーティストが廃屋や廃ビルに違法ではあるが、活動の拠点としている場所のことを言う。良い悪いは別として、そういった現実がある。
 「フランスで日本人アーティストに接して、自分の文化との違いを発見し、興味が湧いてきました。」
 ステファンさんとのインタビュー収録には通訳として、スクワットで活動していた土屋洋介さんが参加してくれた。ステファンさんと土屋さんは同じスクワットで、お互いの国の言葉を教え合った友人なのだそうだ。
 ステファンさんの作品は発色が良く、シンプルなイメージが描かれており、それは上下左右に繋げることができる。スペースさえあれば、いくらでも大きく構成できる作品である。
 インタビューをした時に展示していた作品は「Depays」という作品と「RougePoisson」という作品だった。「Depays」は彼の作った造語で大陸の移動を意味している。その大陸の移動を数枚の作品として制作していた。まるで、パラパラマンガのように大陸が移動していく。
 「日本に来て初めての作品が「Depays」で、存在しない国を作るというイメージがあります。」
 そしてもう一つの作品「RougePoisson」は金魚の群れが輪になってみたり離れていったりしている様をやはり、数枚の作品として制作していた。
 「「Depays」の延長線上にこの作品もあります。小さい集合体から大きい集合体まで、すべて繋がりがあるということです。」
 かたや「大陸の移動」かたや「金魚の移動」である。しかし、共通しているイメージであることは一目瞭然である。そしてこの作風は彼の活動を体現しているのだ。
 言葉も文化も違う場所で彼が行おうとしている活動。それは作り上げることと、それを崩していく作業の繰り返しなのだ。
 職人的でスタンダードとしてあるものから想像力を働かせて新しい作品・活動に挑戦している。それは単純に個人的な「興味」なのかもしれない。しかし、相手がいなければ成立しないことなのだ。

 アーティストは観客に対してコミュケーションを取る為の窓を開いている。
 決して敷居は高く無い。わかりにくいものかも知れないが、少し想像してみてはいかがだろうか。そして、自分なりの感想を相手に話てみたらどうだろうか。もしかすると、アーティストが想像もつかないことを観客であるあなたが想像しているのかもしれない。
 きっと、それをアーティストは待っているに違いない。そしてそこにコミュニケーションが生まれた時、アーティストと観客が一体になって作品を楽しむことができるのではないだろうか。

ラジオは続く

 このルポルタージュを書いている最中にも一つラジオの収録を終わらせた。「イマジナリートーク」の収録だった。ゲストは版画家の花村泰江さん。
 ルポルタージュの事で頭が働いているせいか、他のアーティストとの関連性を気にしながらのインタビューになったように思っている。実際、前出の田中さんの作品のように「普通にある風景」を花村さんも作品にしている。半径5m以内にあるものを作品にするという彼女の考え方はまさにそれだ。いつも手元にある物。アイロンや掃除機や冷蔵庫、洗濯機。
 アーティストとの会話は非日常的に感じることもあるが、それが生まれた場所は僕らの住んでいる今の世界なのだ。素通りしてしまう時間の中にある「小さな変化」を見守りつつ、思いもよらない発想で作品を作り上げていく。
 抽象的な音の中にも「小さな変化」は存在している。
 同じ世界に生きる人間として、それを聴かず、観ず、ではもったいないように思う。
 自分を今までと違った非日常に置くということは勇気のいることでもある。リスクと考える人もいるだろうけれども、是非一度、一日でも数時間でもいい。そんな空間に居てみて欲しい。
 そうすることによって今までと違った自分の「小さな変化」に気づくことがあるかもしれない。
 アーティストが作り出す作品達は、結果ではなく、そこから何処へでも広がってゆくイメージのスタートだからだ。
 そのイメージを少しでも理解してもらうための切っ掛けになるように、僕はラジオを出来るだけ長く続けて行こうと思っている。

ぺくラジオ
http://www.voiceblog.jp/peque/

Imaginary Talk
http://www.voiceblog.jp/sa126/

(平林秀夫)

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