小金井発!芸術文化を書くこと/伝えること講座

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21世紀も竹吹き人生で

(一) 20世紀最後の年から

(1) 小学校での演奏会

 2000年、平成12年20世紀最後の年である。ミレニアムと騒がれ、3千年紀の始まり、いや2千年紀の終わり、20世紀の終わり、いや21世紀の始まりといろいろと論議があったようだが、私たちは「20世紀最後の年!」だ、とはりきって第5回目となる『琴古流北畠頌輔尺八演奏会』の計画を考えていた。
 その計画の前に、かねてより「子どもたちに日本の音楽を聞かせたい」という願いが実現出来ることになった。さっそく、6年生の音楽の鑑賞曲になっている「春の海」の作曲者宮城道雄の随筆を読んでみた。その中に自身の生い立ちについてふれ7、8歳のころ何よりもつらく感じたことが学校へ行けなかったこととあった。今の子どもは登校拒否とかあるが、宮城道雄は眼が悪いばかりに学校へ行けなかったのだ。そんな道雄の思いを子どもたちに知らせたくて子どもたちの年齢に近い道雄の7、8歳から16歳頃の生い立ちを選んで紹介した。
 裏面は邦楽音楽事典で和楽器の絵をコピーし準備を始めた。

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 児童に配ったプリント 表(一部分)
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 プリント 裏

 学期末の忙しい時期であったが、この作業は楽しかった。
 当日、2月23日の1:15~2:00。 私の勤務校中野区立啓明小の体育館で日本の音楽に親しもう《啓明小おことクラブ発表会+箏、尺八を中心とする和楽器による演奏会》が開かれた。おことクラブの児童たちは初舞台が大舞台とあって「どうしよう。どうしよう」とそわそわしていたが、演奏会開始前に私の箏の師匠である新宮順子先生からきれいな音の出し方などを教えてもらったり、私の「貴方達はもう上手なのだから自信を持って弾きなさい」の言葉に励まされたりで、何とか初舞台を終えた。
 次は新宮先生の企画で箏、尺八、三味線、十七絃、胡弓、笙、鼓、太鼓などたくさんの和楽器による『越天楽変奏曲』箏、尺八二重奏『春の海』、尺八『鶴の巣籠』などの演奏である。それぞれの奏者による楽器の説明もあり、ほとんどの児童は、初めて見たり、聞いたりする楽器だったことだろう。私は『越天楽変奏曲』に参加したり、司会をしたりしつつ、自分の学級にも目を配る等忙しかったが、プロの方々による一流の演奏会を子どもたちに聞かせることが出来てうれしかった。尺八を担当したのは私の夫、頌輔である。
 演奏会後各担任に協力してもらい感想文を書いてもらった。120余人の感想が寄せられ、それを夢中になってワープロに打ち込み、製本して出演して下さった方々に渡した。
 子どもたちは結構聞いてくれて一生懸命感想を書いてくれている。その中から1つだけ紹介しよう。

【私は、プロの人たちの合奏が始まる前3年生の私に、プロの人が弾く、お琴の良さが、わかるかなぁと思いました。だけど、聞いてみたら、楽しくわかりやすかったので、とても、こころにのこりました。
 今でも、あの高かったり、ひくかったりする音が聞こえてくるような気がします。
 尺八とおこととたいこなどの音が、かさなって聞こえてきたとき、体が宙にうくみたいに、ふわっと、すずしいかんじの気持ちになりました。】(3年生)

 子どもたちからたくさんのエネルギーをもらった私たちは毎年12月と決めていたリサイタルの用意にとりかかった。
 
 *啓明小には翌々年、箏尺八の体験を挟み込んだ鑑賞教室。真竹から尺八作り、マイ尺八での簡単な演奏等の授業で、ゲストティチャーとして頌輔は数回通い、子どもたちと交流し、エネルギーをもらっている。

(2) 『尾上の松』 

 20世紀最後の曲は『尾上の松』と早くから決めていた。頌輔はこの曲に出会っていなかったら、尺八など続けていなかったかもしれない。あれは30年ほど前のある演奏会である.終曲は『尾上の松』。頌輔はまだ習っていない曲であったが、最初の一音、ツレーでこの曲に入り込み、自分の魂が宇宙に飛んでいってしまったかのように感じた。金縛りにあったように演奏が終わってもしばらくは立ち上がれなかった。この『尾上の松』という曲はなんと素晴らしい曲なのだろう。日本一、いや世界一の名曲、これにかなう曲はない。すごい曲だ。自分もこんな素晴らしい箏や三絃を相手に思いっきり吹いてみたい。「よし明日から仕事の終わった後最低2時間は尺八の稽古をしよう」そう決心したのである。そして、「尺八吹きになりたい!」という思いにとり憑かれたのである。

 20世紀最後の演奏会の終曲を飾るのはこの曲しかない。(この曲は作詞・作曲者不詳。九州系の地歌三絃曲として伝承されてきたものに、1919年(大正8年)宮城道雄が箏の手付けを行って以来、有名になったそうだ。)箏はあの福田種彦先生。宮城道雄に直に習い得意中の得意とするところである。全身で箏を弾き、全身で歌われる迫力を、先生がお元気なうちに是非にとお願いしての舞台となった。
 この武蔵野スイングホールは客席150名程度の小さい劇場で舞台を見下ろす形で客席がある。幕はなく出演者の入退場は暗転になっていても、全部丸見えとなる。演奏前に、出演者、特に三絃(三味線)の方は三絃を膝に乗せ、撥をもって構えるという一連の動作をし、最終の調弦をする。普通これらは幕の内で行い、用意万端となったら幕を開けるわけだが、これを観客の前でやらなくてはならない。出演者は緊張を強いられるが観客は見るものがあって飽きない。こんな会場であるから演奏者の想いと観客の想いが身近に感じとれる。
 『尾上の松』の解説の後に《二十世紀、そして二十一世紀へ。万感の思いをこめて演奏します。》と私がアナウンスをしていよいよ演奏が始まった。
 あちこち具合の悪いところが出てきていた種彦先生だが、舞台に座ってお箏を弾き始めるとすごい迫力で迫ってくる。それに負けじと頌輔も吹き返し、お嬢さんの福田千栄子師も三絃で迫ってくる。観客も身を乗り出して聞いている。ホール全体が一体化し、一つの宇宙を形作っているかのようであった。そして20分と言う時間があっという間に過ぎたのである。
 曲が終わった後頌輔は一人ひとりの温かい拍手が感じられ、一段と大きくなかなか鳴り止まないように感じた。奏者、聴衆が共に幸せな空間を共有でき二十世紀の締めくくりとしては満足であった。
 最後のアナウンス『《あなたの心に響くことを・・・・・》ということで、この武蔵野スイングホール、12月と定めて、今回で3回目となりました。来る21世紀も竹吹き人生で、竹を愛で、竹を通して発信をし続けたいと思っております。』を頌輔は万感の思いで聞いていたのである。

(3) ああ『尾上の松』

 あの感動の舞台から3年後の2003年、平成15年11月29日。宗家竹友社、創立百十周年記念演奏会が国立大劇場で開催された。今回は大舞台なのでやはり種彦先生にお願いしていた。
 ところが、父が入退院を繰り返し、だんだん弱ってきて身体が思うように動かなくなってしまっていた。当時小学校に勤めていた私に代わり、頌輔はその看病も引き受けた。
 そのうちに種彦先生の具合も悪くなり病院へ行くとそのまま入院手術ということになってしまった。しかしそのときにはもう手遅れですぐふさいでしまったらしい。先生は入院生活の中でもこの舞台を楽しみにしていらしたようだ。なにせ病院なので箏にさわることもできずベッドの上で「シャーンテンチン」などと口ずさんでいらしたとか。
 当日は痛み止めの注射を打ち車いすに乗って、病院からのご出演だった。さすがにいつもの力強い演奏とは言えなかったが、最後まで弾き切ったのだった。
 それから4日後、種彦先生が亡くなられたとの一報に、まさかこんなに早く…。
 あの舞台で全て燃焼させてしまったのだろうか。しかし、箏三絃一筋に70余年の先生らしいほとんど舞台の上での大往生だったのかもしれない。
 思えば頌輔と先生との出会いは、34、5年前のことだった。当時、尺八を習い始めたばかりだったが、先生の自然で、雄大かつ、温かみのある芸に魅せられ、合奏もお願いするようになっていったのである。保谷のご自宅に、合奏勉強に伺うと、いつもにこにこして出迎えて下さったが、ほとんど、お話はなさらないのだ。尺八で話しかけると、筝で話が返ってくる。と感じられる時の楽しさを、今も、懐かしく思い起こすことができる。先生の芸暦七十数年間と、頌輔との時間は、一瞬かもしれないが、楽しく合わせて頂けたことの幸せを、いまさらながら感じるのである。種彦先生、最後の最後まで『尾上の松』ありがとうございました。

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福田種彦先生最後の舞台

 父も翌年の3月桜の満開の頃、息を引き取ったのです。

(二) 1989年から1999年まで

 話は前に戻って、年号が平成となったことをきっかけとして思い切って直接宗家竹友社三世川瀬順輔先生の門をたたいた。先生は喜んで迎えて下さり、何かと相談に乗って頂いた。
 そして、1991年、平成3年11月13日念願のリサイタルを新宿は角筈区民センター・ホールで行うことになった。なにもかもが初めてで、観客が入らなかったらどうしようと心配したが、最低家族4人だけは入る。それでもやろうと腹を据えた。そんな8月に歌舞伎座で『怪談蚊喰鳥』、10月には『菊宴月白波』と先生の歌舞伎のお供をして歌舞伎のことを教えて頂き吹かせて頂いた。劇の中で尺八を吹くということは、舞台の役者のせりふなどをきっかけとして、パッと尺八の音を出さなければならないので毎回リサイタルをやっているようなものであった。そんなこんなで心配する暇もなくリサイタルの当日が来て何とか観客席も埋まり成功裡のうちに終えることができ、ほっとした。
 第2回のリサイタルは1998年、平成10年と間が空いてしまった。 その間、NHKカセット『伝統の韻』や『尺八の美学』で本曲「鶴の巣籠」「虚空鈴慕」を先生と共に収録させていただいた。歌舞伎では、「彦山権現誓助剣」「曽我集綉頬俠御所染ー御所五郎蔵」「天衣紛上野初花・河内山」「ぢいさんばあさん」「人情噺小判一両」「少将滋幹の母」「浜芝革財布」などを歌舞伎座、明治座(録音撮り)、浅草公会堂、京都・南座、国立劇場、甲府の巡業などで吹かせていただいた。華やかな歌舞伎と舞台裏を垣間見られたのも貴重な経験となった。その間に頌輔は母を亡くしたが、100ヶ日の墓参は宗家の代理として岡崎に出張教授に出かけたので欠席せざるを得なかった。そして父も亡くなり、その一周忌が明けるのを待ってリサイタルの用意にかかった。
 1998年、平成10年の正月は希望に満ちて明けるはずだった。ところが火葬場が開くのを待って弟を送ることになろうとは!
 頌輔はただただ稽古に没頭した。尺八を思いっきり吹いている時は何もかも忘れることが出来る。ストレスも尺八を思いっきり吹いて解消していた。頭に尺八の音が流れる時は心が落ち着き、物事が上手くいく。上手くいかない時は尺八の音が流れていないのだ。
 4月25日、四谷区民ホールでの『第2回 琴古流北畠頌輔尺八演奏会』も終わり、ボーッと毎日を過ごしているところに、大阪歌舞伎座に出演中の川瀬順輔先生が急病のためすぐに来てくれという電話が竹友社に入り、たまたま勤務日であった頌輔はそれこそ尺八一本のみ携えて大阪に向かったのであった。
 半月ほどで歌舞伎を終えた頌輔と私は何かせずにはいられないという気持ちになった。頌輔に出来る事といったら尺八しかない。弟の供養に毎年12月に近場の小さいホールでリサイタルをしようと考えたのである。
 その年の12月16日。武蔵野スイングホールでは第1回目、『北畠頌輔尺八の会』としては3回目のリサイタルを開催した。終曲は宮城道雄作曲『四季の柳』。来たる1999年が良き年となるよう「四季の柳」で、にぎやかにおさめたいと願っての選曲である。

(三) これから                                                             
 そして、2007年、平成19年12月7日でいつのまにか、リサイタルも9回目となっていた。
 最初の頃こそ、弟の供養という思いが強かったが、いつしか頌輔自身のためにやっているのかなと思うようになっていた。尺八の音がより良く鳴るように尺八の内径をいじったり、編曲を考えたり、二尺四寸という長尺、その逆に一尺四寸という短尺に挑戦したり勉強を続けて吹き込んでいる。そんな頌輔の姿に私はチラシやプログラムを作ったりアナウンスをしたりして支えているつもりである。ともかく今日も頌輔は尺八を吹いている。今、21世紀も竹吹き人生で、竹を愛で、竹を通して発信をし続けることができることを感謝しながら。

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頌輔のお宝 
左から一尺四寸、一尺六寸、一尺七寸、一尺八寸、一尺九寸、二尺、二尺一寸、二尺四寸管


予告
2009年、平成21年6月28日(日)  北畠頌輔尺八の会(第10回) 紀尾井小ホール

(北畠久美子)

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