小金井発!芸術文化を書くこと/伝えること講座

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台湾少年工から学んだ アイデンティティーの育て方、守り方

呉 春生さん(79歳)探訪記


 だまされたら、怒る。それが普通です。やられたらやり返せと教わって私は育ちました。
しかるに、だまされたのに、怒らない人が8,000人もいた話があるのはおかしいと思いませんか。
 その朝、4時からスタートしたNHKラジオ深夜便をうつらうつら聞くともなしに聞いていた私はいつの間にか目がさめ、枕にほおづえして聞き入ることになりました。ドラマチックな話でした。
 台湾の小学校をおえたばかりの優秀な少年たち8,000余名が戦争末期に日本の海軍工廠に志願してきたのはいいけれど、みごとだまされたという話なのです。

台湾少年工  
 太平洋戦争後期、労働力不足をおぎなうため、日本は統治下の台湾から優秀な少年を募集。はたらきながら勉強すれば、旧制中学などの上級学校の卒業資格を与えるという条件で、12、13才から19才の少年が採用試験を受け、計8,400人が日本へ渡った。  
 B29迎撃用の戦闘機「雷電」などを生産した高座海軍工廠(現在の神奈川県座間市、海老名市)で研修を受け、その後、同工廠や横須賀、佐世保などの海軍工廠、各地の航空機工場で生産に従事した。空襲などで少なくとも約60人がなくなったとされる。(『西日本新聞』)



発端

 語っていたのは少年工たちが暮らしていた寮で舎監をされていた方のご子息でした。彼によれば毎朝、少年工たちが隊列を組んで工場に出勤するときに、声高らかに歌をうたいながら歩んだそうですが、その声がまるで波が押し寄せ、ひいてはまた押し寄せるごとくに聞こえる家で少年時代をすごしたということです。当時の少年がいま74才になった石川公弘さんでした。
 一度聞いただけでは聞き流していたかもしれません。しかし私は偶然にも半年後に再放送をもまたしても聞きました。その時に私は疑問を強く意識したのです。「なぜだ!賢い少年たちではないか。だまされて連れてこられて働かされた日本をうらまないなんてことがあるものか。おかしい。調べてみたい。」
 今回の小金井講座でルポの課題を示されたのを機に、具体的な行動を起こすことにしました。行動開始の根底にはもともと私自身の、①生いたち ②子育て そして③今の仕事がからんでいることも自覚しました。多少カタイ表現になりますが、アイデンティティーの育て方、伸ばし方を出来る限り追及していきたいのです。それはこういうことです。

・小6のとき児童会長に選ばれた私は国立大学の附属中学進学を望んだものの叶えられず、村の公立中学校にやらされました。家が貧しかったからです。
・四十余年もの昔ですが、やはり毎朝、社員たちが歌を歌いながら行進する工場が近くにありました。戦前には日本一だったのに、現在は倒産してしまった某企業の工場でした。実は私も石川さんのように寮の寝床でそれを聞いていたのでした。
・中学校卒の優秀な少年たちを集めて半工半読の生活をさせる養成学校をもつ企業がわが故郷にもありました。その進路を選択させられた子どもたちの年長者たちと私は幼い頃よく遊びました。彼らはその企業内養成学校でどんな学業と仕事の両立を果たしえていたのでしょうか。当時はそれを確かめようとしたこともなかったのですが、今になると、気になります。
・アイデンティティーというものが確立できる時期は個人差が大きいと思います。わが家では長男を遠隔地にある全寮制の私立校に入学させてみごと失敗しました。本来、小学校中学年から高学年にかけて芽生える「自分らしさ」の基礎基盤を十分に育てられぬままに12歳で寮に送り出した結果、偏差値信仰の価値観しか持てない子に育ってしまったからです。がんぜない12才の台湾少年工たちは日本に上陸して自分達に対する処遇の真実がわかり、悔し涙にくれたことでしょう。
 偏差値信仰と緊急戦時体制下の学業学歴取得取り下げとを同列において論ずることはできませんが、一体自分は何のために今日一日、今月1カ月を生きているのか、本来の意味を追求したくとも出来にくいという点においては共通点があります。8000もの少年工が途方にくれたとき、一体どうやって切り抜けえたものかと他人事には思えません。
・私が現在取組んでいる「体験・表現教室」は子どもたちにさまざまな体験学習と表現学習のむすびつけを通して、自己表現力を養成することを目指している教室です。今年が9年目です。とても手間のかかる仕事で、そうやすやすと表現力が向上するものではありません。しかしながら、豊かな時代になればなるほど自ら何かをやりだす、体験しようと試みることが自己表現力の養成につながります。体験と表現を繰り返し、達成感、充実感を積み重ねたところに自信やアイデンティティーの基盤が定着化していくものです。挫折感と絶望感の底で少年工たちのアイデンティティーは一体どうやって維持されたものか、これを考えることは私の教室の子どもたちの為にもなることではないかと直感しました。

追跡のスタート 6月7日の小金井講座の翌日

① 月刊『文藝春秋』バックナンバーの追跡収集(2003年8月号)阿川弘之さんのエッセー「心の祖国」、月刊『正論』(2008年5月号・7月号)岡村青さんのレポート「台湾少年工の至誠純真を思う」ほかインターネットに載っている台湾少年工の記事を十数編を読みました。
② 実地検証の初日。7月13日(日)。大和市立図書館に出向きました。相談員が大層親切でした。台湾少年工の関連書物一式を数時間かけて確かめることができました。大和市議会議長職を務められたという石川さんの住所もつきとめ、早速、「台湾少年工で現在、関東近県に在住の方をご紹介願いたい」旨の依頼状を同日付にて発信しました。
③ 12日後の7月25日(金)。石川さんからご丁寧なご返事が到着。大層うれしく、これで第一歩が踏み出せると確信しました。紹介されたのは日本人に帰化された「呉春生さん 大和市在住」でした。
④ 夏は私自身の業務最繁忙期につき、呉さん宅を訪問できたのは8月11日(月)午後になりました。

呉 春生さんの話

 顔つやもよく、論理的に話し、闊達な方でした。しかしながら呉さんはお気の毒に酸素ボンベの携帯を医師から指示されている身でした。また脳梗塞の後遺症で、ものが二つに見えてしまうため、片方の目はいつも眼帯をしているということでした。以下、呉さんの話を再現してみます。

「子どものころのことから・・・・
 台湾高雄市の東、屏東市からさらに南に16kmはなれた村で1929年に生まれました。9人兄弟の長男です。公学校(台湾人の子どもの通う小学校が公学校。内地人の子どもは小学校に通う。)では体育以外はすべて「甲」、1年から高等科2年までの8年間級長をつとめました。(優等生でした)6年生のときには5年生の弟、3年生の妹、1年生の弟の4人とも級長だったということで評判の家でした。
 学校ではすべて日本語での授業です。担任の日本人教師を神様と同じと思っていた上に、その先生から「家でも必要なとき以外は台湾語(福建語)は使うな」と指導されましたから親に嫌がられても日本語を覚えました。1才下の弟は私が高等科2年を卒業して少年工に採用される前に、6年生を終えて先に少年工として日本に渡っていましたから、少年工としては弟が先輩にあたります。
 父親は技術者で町に働きに出かけ、母親は畑仕事に忙しい。弟妹たちの子守り役で私は学校から帰宅しても遊んでいる時間がない子どもでした。だからとびつくように応募した台湾少年工の募集でした。
 少年工の試験  1クラス60数名いた中で6人が受験し、3人が合格しました。
 合格  第6期生として。最後は7期生。
 乗船  敵の襲撃を逃れるために日本への直進ルートをとらないで、台湾から中国沿岸を経て12日間かかって昭和19年2月2日大阪に上陸。船中ではマラリアに感染。
 上陸  たちまち単なる工員の仕事。ただし、昭和18年に入った人の中から20数名は工員養成所に入れました。かれらは学業も受けさせてもらえました。私の配属先は群馬県太田市の中島飛行機で、そこでは仕上げ工という仕事を与えられました。

呉 春生流の対応策(処世術)
 私はもともと勉強がしたいのですから、決断実行は早かったのです。早速、当時『早稲田講義録』とならんで人気の井上講義録(神田)を取り寄せました。寮は消灯時間が決まっていますから、勉強する場所は寮の押入れの中です。懐中電灯のあかりで勉強しました。講義録の内容は頭の中にスイスイ入っていきました。一番困ったことは懐中電灯の電池がすぐ切れてしまうことです。休みの日には電池の確保に苦心しました。当時、モノがない時期になっていたからです。 
 食事は、コメ‥かぞえるほどしかないごはん
    おかず‥豆だけか、豆かす でした。
 同じ台湾からでもいい家庭に育った子はけっこう多かったし、こういう家の子は私とはちがうと思いましたが、自分は耐えられると思っていました。このような日々に耐えぬけたのが自分の誇りです。そして、仕事の技術面でも各専門に適性検査でふり分けられて、細分化して、集中させてやらせていましたので、短い期間でその分野での専門家になりました。仲間には1年間で精巧な時計をばらして直せるようになったものもいます。

まわりを見てわかった時代
 今、どういう環境なのか、自分のおかれた境遇から、自分は何をすればよいのか──非常に凝縮された、かつ実に貴重な、自分を育ててくれた期間であったと思います。文句を言いたくなるどころか、感謝しています。日本中が大変なときで、自分達だけが差別待遇を受け入れさせられたわけではないのですから。ならば、耐え抜くことだと。そして、言われた仕事はきちんとやりぬくべきです。
 日本の敗戦はうすうす知っていました。私は帰国船には乗らないで日本に残留することを決意しました。各地を見聞してあるいたりもしました。そして家庭教師のバイトをしながら2つの大学に進み、卒業しました。東京外国語大学と中央大学です。私が英語力を身につけた、その秘訣とは「絶対に負けない。あきらめない。この人に出来るものならば、自分もやればできるはず」というものです。中央大学法学部を卒業後は、台湾出身のため就職がなかなかできなかったけれども、米軍への就職、ただし、経理職が決まりました。(※東洋のストラスバリウスと賞賛されたバイオリンの製造者陳昌げんさんも全く同じですね。明治大学を卒業しても陳さんは韓国人という理由で彼を受け入れてくれる企業はなかったのです。しかし、独力でバイオリンの製作に取り組み、艱難辛苦の末、成功したという話があります。)勤務先の米軍基地で法律顧問に転籍したきっかけは米軍内のあらそいごとを処理するときに英語と法律の知識のある人材として見込まれたからです。

帰化して平穏な暮らし。
日本高座会会長役をしています。

 逆に台湾に帰った弟は大家族や政治不安定の中でさんざんな苦労をしました。定年後の私は思い立って70歳にして中山大学へ語学留学し、今では日本語、英語、北京語、福建語の4つの言葉が話せます。言葉、語学の力が私をこんにちたらしめてくれましたから、言葉は大切です。辞書は必携です」。以上、呉 春生さんの談話。

(まとめ)
何があっても生き残った雑草のようなもの
─①たくましく、②基盤が強固で、
  ③精神的な支柱になるもの 
  それこそがアイデンティティー


 藤永保『現代の発達心理学』有斐閣の中に次のような言葉をみつけました。
 「発達初期に獲得された自尊心は、その後のあらゆるストレスを乗りこえていく自我を支え、強めていく」。なるほど。これは台湾少年工の呉春生さんにもあてはまるのではないかと思いました。
 呉春生さんの話をうかがって合点したことの一つは、彼が自分のプライドを支えた根底には、自らの能力を信じる力、自尊心が幼少期に確実に育っていたということです。彼のアイデンティティーの育ち方をたどってみて、わかったことは、自己同一性(アイデンティティー)とは温室栽培風の順風満帆の環境で育つものではないということです。日本の海軍工廠を恨まない理由もそこにあったのです。私の当初の疑問がここにいたって、ようやく解けたような気がします。
 打たれても蹴られてもまた立ち直って、根をはり、茎を太らせ、葉を茂らせる雑草のごときもの、それがアイデンティティーというものなのですね。子どもとか少年、青年にたとえるならば、幾たびの失敗、葛藤、挫折や飢餓をともなう体験を経て、それも存分の歳月をかけて、なおかつ集団の中で
という条件のもとに繰り返された体験─それに裏打ちされた確信、自信があって、初めてアイデンティティーの種が発芽するということではないでしょうか。

 さもわかったように書いているこの探訪記ですが、少年工8,000余名の中のたった一人に取材しただけです。これが全体の総意とは言えないでしょう。けれども、今の私の調査段階では台湾少年工が逆境を跳ね返して生きる術を勝ち取っていった関連資料を随分読みました。そのプロセスを経て大和市立図書館に出向いた結果、たどりついたのが石川さん、呉さんだったわけです。まだまだ興味関心の入口に立ったレベルと思っていますが、本当にわくわくするような思いに満ちた約2カ月半でした。

 苦労、苦痛、難渋、壁、障害、不運‥‥難問が多ければ多いほどに人はおのれのアイデンティティーを強固にきづく機会を与えられるものなのですね。もちろん、いともカンタンに崩壊脱落する人もいて当然だし、表面は平静をとりつくろって内心は意欲喪失状態になる人もいるのが人間社会のおもしろおかしいところです。最後に本文の結論として、台湾少年工の皆さんが戦後60年を経て、「日本を恨んでいるヒマはないし、逆にむしろ日本に親しみを感じている」というのは、少年時代に台湾においてつちかってきた自尊心、アイデンティティーのたまもので、それが高座海軍工廠に来て「ためされた。そして本物であることが証明された」─これが私の結論です。勉強をさせず、学歴取得を反故にした罪は日本人の一人として申し訳ありませんでしたとお詫びしなければと思います。
 これから先、私の教室の子どもたち、日本中の子どもたちの一人でも多くに台湾少年工の物語を伝えていきます。                                      
                                               (完)

(間宮功)

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