小金井発!芸術文化を書くこと/伝えること講座

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アーティストとの会話~二つのラジオ番組からの断片~

二つのラジオ番組

 今年の2月頃からネットラジオを制作している。「ぺくラジオ」という番組と「イマジナリートーク」という番組だ。
 「ぺくラジオ」は自分にとって気になる人、ジャンルを問わず面白いと思った人をゲストに呼んでお話をうかがったり、日頃思った事などをつらつら話すだけという場合もある。
 僕自身、音楽をやっているのでミュージシャンをゲストに誘う場合が多い。
 「イマジナリートーク」は吉祥寺にある「ギャラリー惺」を中心に、個展をしている作家に作品やその制作についてお話をうかがうという番組だ。
 ギャラリー惺は現代美術のアーティストを扱う。一般的に「よくわからない」とか「敷居が高い」などといわれることの多いジャンルである。
 どちらの番組にも共通しているのは「僕自身にとっての教育番組」ということ。
 元々テレビやラジオでのインタビュー番組は好きである。文化人といわれる人々の話を聞くのは勉強になるし、自分のやっている事に直接関係ない人の話でも、何かの瞬間に繋がることがある。それが面白いのである。
 両番組制作で僕が決めたルールがある。
 一番組約30分。オープニングの曲で始まり、約15分のところで「ジングル」という番組の節目を演出する短い曲を入れて、エンディングの曲を30秒程入れる。この短い曲はコンピュータのソフト上にあらかじめ配置させてあり、それを意識しながら話を進める。もちろん、配置した部分に会話が食い込んでしまうこともあるので、それは言葉優先で、多少の編集作業をしなければならないが、極力編集はしない。
 そして、台本を用意しない。アーティストによっては次回のライブや展覧会など告知したい場合があるからそういったことは収録前に聞いておくが、それ以外は決めない。
 「ぺくラジオ」の場合、都内にあるファミリーレストランなどでの収録が多く、店の雑音まで録音してしまうことになる。しかし、収録のためにわざわざスタジオを借りたりするのは手間がかかるし、その手間を相手も考えて話すわけで、その段階で緊張してしまう場合がある。多少聴き取りにくい部分があったとしても、録音しているという緊張感を無くしたいと思うので、いまの方法に落ち着いている。
 「イマジナリートーク」はギャラリー惺で収録している以外はほとんど「ぺくラジオ」と同じルール。半地下にあるギャラリーは吉祥寺通りに面していて、車の通る音が多少収録されてしまうが、実際の作品を眺め、「僕が思ったこと」が質問になって進んでいくことになるのでギャラリーで収録することが大切なのだ。
 音を収録するのだからマイクも必要と思い、いくつか手に入れたマイクを試したけれども、調整するのに時間がかかることと、先に述べた緊張してしまうことを考え、コンピュータ本体に内蔵されているマイクで収録している。
 いつもと違った場所、見慣れないマイクなど使わなくても「簡単に録音できるのだな」と思ってもらうのが丁度良いと思っている。
 先に述べたように、僕もミュージシャンの端くれであるし、絵描きの端くれでもある。制作の基本となる部分はわかっているつもりだ。だから「どんな絵の具を使っていますか?」とか「あなたの芸術性はどんなものですか?」のような質問は極力しない。聴いている方は「何故そこを聞かないのか?」と思われるかもしれないが、直接的なことを聞けば聞く程、作品を鑑賞する意味がなくなってきてしまうように思う。しかし、アーティストが表現したいことの触りの部分を語ってもらうことで、興味を持ってもらえれば、作品との出会いもより楽しいものになるのではないかと思っている。
 
イメージを委ねる

 先に述べたように「ぺくラジオ」はミュージシャンのゲストが多い。ではどんな音楽を演奏している人達か。一言で言うと「アンダーグラウンドな人達」だ。
 例えば「即興演奏」というジャンルの人が多い。実は僕自身もその演奏家なのだが、「即興演奏」はロックやポップスのようなわかりやすいものではない。演奏者はその場その場で旋律を作り、その時の雰囲気のようなものを作り上げていく。もともと聴いたことのない曲だし、ジャンル分けしにくい音楽なので、結果「わからない」というふうに思われることが多い。ただ、そんな「わかりにくい」ものでも、観客に何かをイメージさせる時がある。
 「即興は会話であるというのは最低限必要なことです。自分との会話。お客さんとの会話。それは、水族館で魚を鑑賞するように、ただ観てもらえば良いと思っています。そうすることに規制はないわけですから、気取らずに楽しんでもらえれば良いのです。それは、観客冥利につきるということだと思います。」
 ベーシストでシンセサイザー奏者の小池実さんは去年の夏、香川県で即興演奏のライブをおこなった。
 その演奏終了後、小池さんの前に現れた観客の方が「アフリカの草原のようなものが浮かんできました。」と言ったそうだ。そういったイメージを楽しむことは「観客冥利につきること」なのだ。
 小池さんはアフリカの草原をイメージして演奏していたわけではない。けれども、観客はそう思ったのだ。小池さんは観客のイメージしたものを聞いて素直に喜んだと語った。

 「イマジナリートーク」のゲスト出演していただいたキタマタ・ヨシヒロさんはこんなことを言っていた。
 「例えば僕がうどんを食べたいとかカレーが食べたいとか思って作品を撮ったとしましょう。それを観たお客さんが、これは讃岐っぽいなとかインドカレーだなとか、自分の思ったうどん、カレーに感じてもらっていいんです。」と。仮にお客さんがキタマタさんの思ってもみないものを感じて「こう感じました」と言われた場合でも、それはその人の「リアル」であると彼は受け止めるのだ。アーティストが全てを提示して「これはこうだ」と言ってしまうことは、それ以上の広がりを止めてしまうことになってしまう。お客さんは作品と対峙し、想像力を働かせて目の前の作品の中に入り込む。そうして感じた結果がアーティストの望む答えのようなものかもしれない。
 ちなみに、キタマタさんの作品は決してうどんやカレーを撮影したものではない。武蔵野にある森の風景をピントを甘くして撮影したものだ。彼は眼鏡をかけているけれどもその眼鏡を外した時に見える風景はピントの甘い世界なのだ。彼の視力を作品に反映させているということ。
 小池さんは音楽、キタマタさんは現代美術、具体的に出力されたものは音と写真だが、共通している部分がある。それは相手に「イメージを委ねる」ということだ。

 フランス人の作家ステファン・ルルさんは「鑑賞者がコンセプトを知りたいと思うことは、安心したいと思っているからです。作家には強いコンセプトはあるけれども、それを言葉でわかってもらうのではなく、自分が作品を観て感じた時のその感覚を大切にしてもらいたいのです。」と語っていた。
 田中マサシさんという作家の作品は、何処にでもある淡々とした風景を撮影している。例えば家から駅までの間の、ただただ過ぎて行く風景を写真に収める。写真のタイトルは番号になっている。機械的な数字がタイトルであって何処で撮ったものなのかはその周辺に住んでいる人かアーティスト本人でしかわからない。
 「普段から見慣れた景色を例えば映画のセットみたいに作ったとすると、それってもの凄く大変なことでしょう。僕らはそういう世界に住んでいるんです。だから、その風景をただの物としてしか感じられないのは勿体無い気がするんです。」と彼は言った。
 見慣れた風景をもう一度改めて観てみる。そうすると極わずかなことでも発見がある。ラジオ収録中、不思議なことに、その何処にでもある風景は、以前に自分が住んでいた街の風景ではないかという「記憶の風景」と重なる部分があった。これは個人差があるかもしれないが、彼の作品を鑑賞する楽しさでもある。旅に出て、見た事のない街にぽつんと立つと何となく「どこそこみたいだな」と思う時がある。そんな感覚になったのだ。田中さんにそれを話すと「そういった楽しみ方もありますね。」と語った。
 これも鑑賞者側の「イメージ」に委ねられたものであると思う。
 僕は2つのラジオ番組の中で10人のアーティストから話をうかがったけれども、10人ともに「自分のイメージを強要したくない、自由に感じてもらいたい」と語っていた。

 パーカッショニストのカワイ・ヒトシさんはVajuWaju(ウ゛ァジュワジュ)と言うバンドで活躍している。インストルメンタルのバンドであるVajuWajuはジャズ的な技法を軸に即興的要素を取り入れたカラフルなバンドである。このバンドで彼が目指すところは「クスッと笑えるようなユーモアのあるバンド」だ。実際のライブを観る限り緊張感のある演奏でそこにはユーモアよりもシリアスさの方を強く感じるが、シリアスの中に即興的に挿入される場面展開が彼の言う「ユーモア」なのだ。そして、音楽という「会話」を「ユーモア」に絡めて、どのように観客に伝えるかを考えているようだ。
 「ライブは会話である」とカワイさんはいう。これは先に登場したベーシストの小池さんもいっていたが、ミュージシャンも観客もその「会話」の中に居る。
 「バンドのメンバーはあまり会話が上手いとは言えません。(笑)ですが、理屈でなく感じる部分で面白いものを作りたいと思っているんです。」
 カワイさんは、故いかりや長介氏がリーダーをつとめたドリフターズのファンである。幼い頃ドリフターズの番組を見て楽しんだことは、現在の音楽活動に少なからず影響があるという。
 「大爆笑でなくても、クスッと笑える部分が好き」そういうところがドリフターズのコントなどから影響を受けたもののようだ。
 「例えばアナウンサーは正確に情報を伝えるために訓練をします。話すスピードや滑舌など訓練する。ミュージシャンも同じように訓練しますが、訓練したことから出てくる「正確な音楽」の前に「何となくわかる」という感覚的なものがあると思うんです。」
 カワイさんの話す感覚的なことは「お葬式のシリアスさに耐えかねて笑ってしまうことがある」という少し変わった視点である。例えばお葬式の最中、足がしびれて立てない場合があるけれども、お焼香の時、転んでしまう人を見て、笑ってはいけないのは重々承知していたとしてもそれまでの緊張が何処かへ消えてしまう瞬間がある。これは「恥ずかしい」ということだが、ある意味「ユーモア」でもある。ピンと張りつめたものが一瞬のうちに途切れてしまう瞬間。
 いかりや長介さんがお母さん役で子供に扮したメンバーに激怒する場面があった。怯えた子供達の中で加藤茶さんが「ヘッブシュン!」とクシャミをしてその場を笑いへ流していく。
 一定の空気感の中に異物が入り込んでしまった時のインパクトをバンドで作り出すこと。
少々極端と言うか不思議な話だけれども、感覚として共感していただける部分もあると思う。
 これはラジオ収録後に聞いた話だが、カワイさんはファシリテーター(促進者)としての活動もしている。まったく楽器をいじったことのない人々に「こうしてみると良いですよ」と促す人。これは「委ねる」ことを楽しんでいるカワイさんならではの役目のような気がした。

新たな表現を求めて

 パフォーマンスとは、アーティスト自体の行動が作品のテーマとなる表現方法だが、理解されにくい表現方法の一つだと思う。
 「別に、わかりにくくしているつもりはないです。最初は陶芸作品を作ってましたが、自分の新しい表現を探していて、それは現代美術の中に見いだせるのではないかと思い、そういう活動に移っていったんです。」
 パフォーマーの寺田織絵さんは「おにぎりパフォーマンス」と言うイベントを企画・開催した。船橋にあるアンデルセン公園内で、自分で作ったおにぎりを配る。配られた人達はそのおにぎりを食べる。その食べている行為は写真や映像に記録され、アンデルセン公園内にある「こども美術館」の一室で公開される。この一室でもおにぎりは配られる。そして記録映像を鑑賞している人々は、おにぎりをほおばりながらおにぎりをほおばっている人達を鑑賞する。過去におにぎりを食べた人と現在食べている人が寺田さんのおにぎりを食べることで共通の体験をすることになる。
 彼女が「おにぎりパフォーマンス」に行き着くまでには試行錯誤があった。
 作家としてのスタートを陶芸で始めた彼女は「陶芸の世界の中の食」という部分に注目する。
 陶芸作品として食べられないケーキを作ったこともあった。この作品はレシピも付いている。
 「粘土になる前の土とか砂とか、自然から採れる素材という観点を意識した時に、食べ物の材料のように感じたんです。」
 食べものを食べる事と作る事両方好きだと言うのはもちろんだけれども「美味しそう」と思う部分を別な視点から感じている。
 「焼き上がった陶芸作品の艶などの質感を見た時に、まるで食べ物のように思うことがあります。」
 そう言われて漬け物などに使う壷を想像してみると焦げ茶で黒い釉薬が垂れていて和菓子のように見えなくもない。
 彼女がイギリスの大学に留学していた頃、そこで知り合った人々と制作したビデオ作品では自ら出演し、魚を淡々と食べていた。それはイギリスの人々から見た日本人との食のギャップみたいなものを表現したかったらしい。そういう活動をするうちに、もっと直接的なコミュニケーションとして、日本を代表する食べ物「おにぎり」が登場する。作家が作ったものを体内に取り込むという直接さが彼女の考える新しい表現なのだと思う。
 「誰でも必要とする食べ物の持つ力を自分のパフォーマンス・イベントに取り入れたかったんです。おにぎりを食べつつ映像を観て、自分が参加していることを感じてもらいたいと思っていました。」寺田さんはそう語った。
 結びつかなさそうなものどうしを、あえて結びつけてしまうこと。それは少々奇妙なことのように感じられるかもしれない。いびつで、不安定なもののように感じるだろう。そもそも有り得ないものなのだから、それを不思議に思うことは当然なのだ。しかし繋ぎ合わせ安いものを結びつけたところで、そこに面白味はないわけで、違和感のあるものを、いびつさや不自然さを感じさせつつも作品として成立させることをアーティストは考えている。

 パーカッショニストの山北健一さんはジャンルを問わず、多方面のミュージシャンと音楽を作り上げている。
 彼がパーカッションを始めた切っ掛けは「お祭り好き」ということらしい。
 「街に太鼓の音が聴こえてくると、外に出てました。太鼓と鐘と踊りがセットになっている。地車だったんですけど、街を練り歩いて来た地車が近づいてくると居ても立ってもいられなくなってしまう。そんな少年時代でしたね。何故パーカッションかと原因を探ると、そういうことなのかと思います。」
 そんな彼もCDアルバム制作やライブなどで、挑戦を繰り返している。
 例えば、録音した曲をライブ中に流し、それに合わせて同じフレーズを叩く。「自分で作った曲だからそんなことは出来て当たり前だ」と思うかもしれないけれども、これは簡単に出来ることではない。一種、職人的な技術が必要なのだ。
 メトロノームを持っている方は挑戦していただきたい。一定のリズムを流しながら、それに合わせて手を叩くというシンプルなことだけれども、録音してみるとズレていることに気がつくと思う。ズレているかどうかに気づくのにも多少時間はかかるかもしれないけれども。
 流れている時間(リズム)の決められたポイントに正確に音を置いていく作業を彼はやってのけてゆく。
 「一定のリズムで演奏するのは心地良いです。機械と合わせる時はメロディーやあるリズムのシーンによっては、正確なテンポが下がったように感じる時があります。生の演奏に機械があってこないと思えてしまう。しかし、録音したものを後で聴いてみると、これで良かったんだと思います。」
 今までの彼の作品はパーカッションだけで作り上げた曲だった。打楽器だけと考えるとメロディーのない退屈なものに思われるかもしれないがそんなことは決してない。ジャンベというアフリカの太鼓を叩いて、観客がどのくらいでその音に飽きてしまうかを彼は長年の演奏経験から学んでいる。コンガ、ボンゴという一般的なラテン系のパーカッションはもちろん、時には大・中・小の木魚を叩いたり、バラフォンという木琴のような楽器を使ってのメロディー的フレーズなども折り込みながら多彩なパーカッション演奏を聞かせてくれる。
 そんな彼が次に発表する作品では積極的に他の楽器、例えばエレキベースやコンピュータなども使い「より聞きやすい一般的な音楽」に挑戦している。演奏するのは山北さんのみ。
 「Blue Momentというアルバムタイトルは、夕日が沈んだ後のほんの一瞬しかない時間をいいます。曲によっては絵や色がイメージできるような作品を目指しました。今回はいろんな楽器で曲を構成しています。今までのパーカッションの演奏をベースに、そういったものでデコレーションしていったアルバムです。」
 数年間続けてきたパーカッションのみの楽曲作りを自身でうち壊すこと、それは今まで山北ファンであったパーカッション好きにとって、違和感を隠せないものと思う。しかし、それでも彼は自分の表現したいことに素直でありたいと語っていた。ここで出てくる素直な表現と言うのは「誰もが分かりやすく入り込みやすい音楽」のこと。そして、自分の感覚的にとらえた風景、ツアーで行った山や海のような自然の持つ人を飲み込んでしまいそうな空間などを表現するといったことなのだ。それは、テレビなどで放送している音楽番組では扱われにくい音楽かもしれない。だが、自分なりのポップスを作り出そうとしている。
 ラジオ収録後、「CD屋のヤ行の棚で、ポップスの職人山下達郎の隣に僕の作品があるって面白いでしょう?」と彼は笑っていた。

表現とコミュニケーション

 榎本謙一郎さんの作品制作をうかがった時に面白いと思ったのは作品制作の源の部分。
 彼は平面作品を描く人だけれども、制作には写真を使うことがしばしばある。
 例えば街を歩いていて、奇麗だなと思う風景に出会ったとする。それを携帯電話のカメラに撮る。それを持ち帰り、制作に着手するのだが、写真に移った全てを単純に模写や、デフォルメするわけではない。彼が描きたいのは「奇麗だな」と思った時の「感情」なのだ。それが何色なのか?どんな形をしているのか?それをじっくりと考えて筆を動かしていく。これが彼の表現したいものなのだそうだ。前出したキタマタさんの「感じて欲しいこと」もそうだが、決して作品に描かれたそのものではない。榎本さんも同じである。
 「決して何かを崩そうと思って描こうとは思っていないんです。自分の中に現れたリアルに対して忠実に作品を描いているんです。」
 街を歩いていて「あの頃嗅いだことのある匂いだ」と思うことがある。それはダイレクトに記憶にとどき「あの頃」を思い出すことがあった。不明瞭な記憶だが、それを感じたことはリアルである。榎本さんの作品制作にそれを感じた。
 「匂いの記憶は僕もわかります。それ以外では思い出したこともなかったことが、匂いを切っ掛けに思い出すことってありますね。」
 不思議なことに榎本さん、山北さん、キタマタさんとの会話の中で出て来た言葉や感覚には「狭間」という言葉が思いおこされた。この「狭間」というのは、山北さんのアルバム「Blue Moment」や、榎本さんの形として捉えられないが、何かが存在しているような感覚のように思う。
 考えてみると、毎日おこる出来事に日の出と日没がある。毎日のことではないのだけれど、改めて日が出る様子や沈む姿を興味深く見つめていると驚いたり、感動したりすることがある。
 彼らが表現したいことはそういうことなのではないか。ドキュメンタリー番組で小動物や植物をテーマにしたもので、蟻の生活とか今にも干上がりそうな池の中で数々の魚、虫などが蠢いているものとか、無機質な物体だけれども気づかない間に劣化している物のように「気にも止めない小さい変化」に注目するということのように思う。
 榎本さんの個展DMのコメントは次のようなものだった。

 「現実の風景や物事であるにも拘わらず、まるで非現実であるかのように思える時がある。その瞬間、僕の五感はその他の外界からの働きかけに鈍くなり、頭がすこし痺れている。この、言葉で説明のつかない現象をきっと感動と言うのだ。非現実と現実、言い換えて夢とうつつ。それが僕の気になる所であり、作品に現れる世界なのだと思う。」

 今井尋也さんは鼓奏者である。能の世界で活動している人かと思うとそうではない。もちろん、初めは古典芸能の世界からのスタートだった。
 「2、3年くらいで古典音楽以外の活動が増えました。一時、能の活動を封印していた頃がありましたが、現代音楽の作曲家などからお誘いをいただくようになりました。実際、能を中心に活動している人を誘いにくい部分があると思いますから、一度、そこからから離れた僕に白羽の矢が立ったということだと思います。」
 多方面のミュージシャンと共演する彼だが、鼓の演奏表現への挑戦がうかがえる。
 「例えば、演奏法の中に3つの要素があって、一つは鼓を鳴らした時。二つめは、かけ声で、「よう、ポン」「ほう、ポン」というように、叩く前にかけ声をかけます。これは他の打楽器演奏とは根本的に違うものです声も演奏形態の一つと捉える。三つめは、息を吸うこと。かけ声を発生させるためには大きく息を吸わなくてはいけない。」この「息を吸い込むこと」は、能の世界でいう「こみ」というものだ。
 「こみをとる、かけ声を出す、鼓を鳴らす。この三つを一つの動作として演奏しています。
 こみは目に見えないので観客の方にはわかりにくいものだと思いますが、鼓の演奏家が演奏中に一番気にしているのは、こみをとることなんです。」
 彼はセッションの中で、古典芸能の手法を積極的に取り入れ、相手とのコミュニケーションをはかろうとしている。
 「他のジャンルの演奏家とセッションするということも、その場にこみが生まれる可能性が見いだせるのではないかと積極的に参加しています。そこで、自分のやっていることが通用するのか興味のあるところなんです。」
 ジャンルを問わず音楽を感じる時によく使う言葉で「ノリ」という言葉がある。極端ではあるが「ノリ」と「こみ」は似ているもののように感じた。
 鑑賞する側からみれば音のない部分は「素通りするだけ」と思いがちだが、この空拍を感じることで初めて舞台は成立する。空拍は必ず存在しているのだ。
 前出の山北さん、カワイさん、小池さんも同じようにこの「何もない空拍」を感じながら次の音を用意していく。
 音楽は時間的芸術であるといわれるからこの「空拍」を感じやすい。しかし、美術の中でもこの「空拍」は存在しているのかもしれない。手前に描かれた色や物と背景にある色や物。重なり合うものや隣り合うものがある限り「空拍」は存在しているように思う。
 学生の頃、「平面構成」というものをやらされた覚えがある。幾何学模様を描き、それに色を乗せてゆく。この「平面構成」は絵の中の構図を作る勉強として記憶しているけれども、講師の言葉の中に「リズム」という言葉を使っていたことを思い出した。絵の中のリズム。具体的に解釈するのは難しいけれども、感覚的には分かるように思う。
 今井さんは舞台演出家としての顔も持っている。
 「参加型のイベントを演出した時のことですが、入場料を支払ってもらう時に、架空のお金を渡しました。そのお金はパフォーマンスに参加することで稼げるというルールを作り、ある程度の金額になったところで初めてステージ上のパフォーマンスを観ることができる。そういったイベントを企画しつつ、自分の中に本当の参加型イベントとは何かという疑問が浮かんできました。突詰めて考えてみた結果、普通に観客として観てもらうということが本当の参加型なんだと思うようになりました。ステージでおこなわれていることの意味を知ってもらいながら観てもらうこと。普通におこなっていたことに意味を感じています。」

 ノイズミュージックというジャンルがある。音楽とは程遠いように思われる音を組合わせて作られる音楽。音の鳴る物ならば何でも鳴らして音楽という形にしていこうとするジャンルで、楽典などに記されている理論を超えた表現をする。工事現場で使うような道具が使われることもあるし、街の音そのものを音楽として捉える場合もある。
 このノイズミュージックから新たな世界を見いだそうとしているミュージシャンがダークロウさんだ。
 一般的に馴染みの薄いノイズミュージックだが、さまざまなジャンルと融合して新しい形を作り出しているそうだ。
 「ノイズミュージックといってもいろいろで、違うジャンルとの融合を考えているように思います。そういう意味で面白い方向にあるのではないかと思っています。自分が新しいもの好きということもありますが、例えばロックやポップスも新しい聴かせ方を見つけなくていけないのと同じで、ノイズミュージックもそうあると思います。」
 彼の演奏スタイルは時代錯誤かもしれない。コンピュータで音楽を作ることが全盛の今、彼はコンピュータを使わず、数十年前に発売されたシンセサイザーを今も使っているし、機材的に目新しいものは使っていない。けれども、彼のファンはそれを好んでいる。
 あるライブ終了後、ダークロウさんのファンがこう言ったそうだ。「コンピュータは使ってませんよね?」と。
 過去、ロックは破壊だと言われ、そこから生まれた音がノイズになったように、新たな形を目指して活動している。
 彼の演奏は機械的な音を使っているが肉感的である。これは今井さんの話にも出て来た「空拍」を上手く使っているところに理由があると思う。バネのように引っ張ったものが元に戻ろうとする物理的な動きを彼の演奏から感じるのである。それは古くから使われている楽器の演奏となんら変わりない。ヴァイオリンやチェロやギターと同じである。
 僕自身が持つノイズミュージックの印象は一言で「暴力的怖さ」である。無機質な音、分かりにくい音、耳が痛くなる程大きな音。けれども、ダークロウさんの音楽には「スリル」はあっても「暴力」はあまり感じられない。良い意味での「緊張」があると思う。
 実際、今の彼には本当の意味でのノイズミュージックをやっている感覚は無いそうだ。
 では、彼にとっての表現は何処へ注目しているのか。
 「同じジャンルの中でも別な表現をするもので、現代音楽からの流れがあったり、単純に音の面白さを追求している場合もありますが、自分のやっている音楽に関していえば、リズムを中心に考えています。観客が安定した転回を感じ始めたところでわざと、リズムを崩して驚いた観客の顔を見たいです。これは遊び心として。」
 これは彼の観客とのコミュニケーションなのだ。
 実際は受け入れられにくい音楽だが、観客に受け入れてもらいたいと思って演奏しているのにかわりはない。でなければ音楽をやる意味が無くなってしまう。
 「へヴィーメタルは嫌いですという人がいるけれども、聴いていないのにそういい切ってしまう場合が多々あります。見た目だけの判断で決めてはいけないと思いますし、ノイズミュージックがマニア的音楽ならば、逆に、ロックやポップスを聴いている人達にもマニアが多いとも思うし。先入観というものも変わって行くべきものだと思います。」
 アーティストと観客の垣根のない立場を作っていくことが彼の活動の源になっているように思えた。

 ステファン・ルルさんはフランスのスクワットで活動していたアーティストだ。
 スクワットは、さまざまなアーティストが廃屋や廃ビルに違法ではあるが、活動の拠点としている場所のことを言う。良い悪いは別として、そういった現実がある。
 「フランスで日本人アーティストに接して、自分の文化との違いを発見し、興味が湧いてきました。」
 ステファンさんとのインタビュー収録には通訳として、スクワットで活動していた土屋洋介さんが参加してくれた。ステファンさんと土屋さんは同じスクワットで、お互いの国の言葉を教え合った友人なのだそうだ。
 ステファンさんの作品は発色が良く、シンプルなイメージが描かれており、それは上下左右に繋げることができる。スペースさえあれば、いくらでも大きく構成できる作品である。
 インタビューをした時に展示していた作品は「Depays」という作品と「RougePoisson」という作品だった。「Depays」は彼の作った造語で大陸の移動を意味している。その大陸の移動を数枚の作品として制作していた。まるで、パラパラマンガのように大陸が移動していく。
 「日本に来て初めての作品が「Depays」で、存在しない国を作るというイメージがあります。」
 そしてもう一つの作品「RougePoisson」は金魚の群れが輪になってみたり離れていったりしている様をやはり、数枚の作品として制作していた。
 「「Depays」の延長線上にこの作品もあります。小さい集合体から大きい集合体まで、すべて繋がりがあるということです。」
 かたや「大陸の移動」かたや「金魚の移動」である。しかし、共通しているイメージであることは一目瞭然である。そしてこの作風は彼の活動を体現しているのだ。
 言葉も文化も違う場所で彼が行おうとしている活動。それは作り上げることと、それを崩していく作業の繰り返しなのだ。
 職人的でスタンダードとしてあるものから想像力を働かせて新しい作品・活動に挑戦している。それは単純に個人的な「興味」なのかもしれない。しかし、相手がいなければ成立しないことなのだ。

 アーティストは観客に対してコミュケーションを取る為の窓を開いている。
 決して敷居は高く無い。わかりにくいものかも知れないが、少し想像してみてはいかがだろうか。そして、自分なりの感想を相手に話てみたらどうだろうか。もしかすると、アーティストが想像もつかないことを観客であるあなたが想像しているのかもしれない。
 きっと、それをアーティストは待っているに違いない。そしてそこにコミュニケーションが生まれた時、アーティストと観客が一体になって作品を楽しむことができるのではないだろうか。

ラジオは続く

 このルポルタージュを書いている最中にも一つラジオの収録を終わらせた。「イマジナリートーク」の収録だった。ゲストは版画家の花村泰江さん。
 ルポルタージュの事で頭が働いているせいか、他のアーティストとの関連性を気にしながらのインタビューになったように思っている。実際、前出の田中さんの作品のように「普通にある風景」を花村さんも作品にしている。半径5m以内にあるものを作品にするという彼女の考え方はまさにそれだ。いつも手元にある物。アイロンや掃除機や冷蔵庫、洗濯機。
 アーティストとの会話は非日常的に感じることもあるが、それが生まれた場所は僕らの住んでいる今の世界なのだ。素通りしてしまう時間の中にある「小さな変化」を見守りつつ、思いもよらない発想で作品を作り上げていく。
 抽象的な音の中にも「小さな変化」は存在している。
 同じ世界に生きる人間として、それを聴かず、観ず、ではもったいないように思う。
 自分を今までと違った非日常に置くということは勇気のいることでもある。リスクと考える人もいるだろうけれども、是非一度、一日でも数時間でもいい。そんな空間に居てみて欲しい。
 そうすることによって今までと違った自分の「小さな変化」に気づくことがあるかもしれない。
 アーティストが作り出す作品達は、結果ではなく、そこから何処へでも広がってゆくイメージのスタートだからだ。
 そのイメージを少しでも理解してもらうための切っ掛けになるように、僕はラジオを出来るだけ長く続けて行こうと思っている。

ぺくラジオ
http://www.voiceblog.jp/peque/

Imaginary Talk
http://www.voiceblog.jp/sa126/

(平林秀夫)

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